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最近「最上川流域に庄内米と大名をしのぐ日本海文化」(酒田)を再読した。本日はその趣旨を箇条書きで表し、読後感想を交えて述べたい。


1港湾にみなぎる進取の気風


著者は童門冬二氏(1927年~)である。童門冬二氏はNHKの「その時歴史がうごいた」に何度かゲスト出演していたのを見たことがあった。自分が目標とする歴史作家の一人である。


2童門冬二


1河村瑞賢と角倉了以

本題に入る前に河村瑞賢と角倉了以のプロフィールについて触れたい。


河村瑞賢(かわむらずいけん 1618~1699)

名は義道、通称十右衛門、平太夫。伊勢(三重県)出身、出羽の国酒田からの西回り航路を開拓した江戸時代の豪商。貧農の家に生まれ、土木工事の車力(人夫)を経て、漬物屋から土木建築業に身を転じる。明暦の江戸大火では材木の買い占めで利益をあげる。鉱山や新田の開発、東廻航路・西廻航路の整備淀川治水のための安治川開削などの事業を手がけ、後に旗本にとりたてられる。


角倉了以(すみくらりょうい 1554~1614)

戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。


河村瑞賢は西廻り航路を開拓した人物として有名だが、彼がヒントにしたのは高瀬川を開削した角倉了以だったという。角倉了以は倉敷の高瀬舟にヒントを得て交易ルートとして琵琶湖の水運を使って京都を拠点として、太平洋側と日本海側の文物を扱い、高瀬川の通行料などにより莫大な利益を得た。実はこの了以からヒントを得たのが河村瑞賢の西廻り航路(北前航路とも)と東廻り航路であったという。


明暦の大火による木材の調達(木曽の木材を買い占める)で莫大な利益を上げた瑞賢には強い運もあったようだ。瑞賢はこの後天領の多い出羽の村山郡から庄内米の物流を命じられ、酒田に倉庫を複数建設した。瑞賢の建てた蔵は彼の名をとって瑞賢蔵と呼ばれた。瑞賢は先見の目があったよう。海が荒れ非常に危険とされた山陰地方沖の海路を通り長州(今の山口県)を迂回しての瀬戸内海航路の開拓が、上方や江戸への開運流通の根底を大きく変えるものとなり、北端の酒田からの海運と繋がっていった。こうして酒田は「諸国往還之津」と呼ばれ、西廻り航路の一大拠点となっていった。


3西廻り航路


2、酒田三十六人衆伝説

飽くまでも逸話の域を出ていないが、三十六人衆の起源を遡ると、藤原秀衡の妹の徳という人物が源頼朝の藤原征伐を逃れて向酒田(現川南地区)に落ち延びたとされる。三十六人衆は徳の家臣として、この地方に居ついたという。酒田の財閥として知られる鐙屋は三十六人衆の流れを組むものと考えられているということで、現在も、酒田市の市街地にある鐙屋に往時の栄華の縁を見ることができる。


徳はその後尼僧になり徳尼公と呼ばれた。但し向酒田は度々最上川が氾濫するので、現在の本町(酒田市役所近く)に移り住んだという。その後三十六人衆は刀を捨て商人となり、酒田の商業発展の礎となった。酒田の豪商である本間光丘は明和元年(1764年)京都で徳尼公の木像を作らせ、廟とともに曹洞宗・泉流寺に寄進した。徳尼公の命日は4月15日とされる。


その後、酒田は徳川の支配下に置かれることとなり、徳川家康の重臣であった酒井氏が入り、藩主となった。酒井氏は酒田には城代を置き、酒田の南隣の鶴岡に城を築き藩政を司った。こうして江戸期に入って、酒田は商人の町、鶴岡は武士の町という色彩が形成されていった。童門冬二氏は「酒田の伝統的精神を育んだのは三十六人衆伝説にある」と述べている。


3、豪商・本間氏の存在感

庄内には「本間さまにはおよびもないがせめてなりたや殿さまに」という言葉がある。この言葉に代表されるように豪商・本間氏の足跡は極めて大きく、今でも本間物産や本間ゴルフなどに本間財閥の威光を残している。中でも本間光丘の存在が際立つ。光丘の出身は越前、佐渡、相模など諸説が存在するが、どれが本当なのかは定かでない。何れにしても彼は庄内から見ればよそ者ということになる。


そのよそ者が庄内に莫大な影響力を持つに至ったのは彼の先見性である。彼は単に財を成すだけでなく海岸林の植栽などに目を向け、藩政への影響力を次第に高めて行く。酒井氏からも大いに頼られた光丘の散財は農政にも及んだ。彼の基本的な姿勢は返される宛てのない金は貸さないものであったが、筋の通った返済計画を持つ者には金を貸した。中には五十年、百年にも及ぶ貸し付けもあり、光丘一代のみの範疇に留まらなかったようだ。


これによって地主になるものと小作人になる者がはっきりしたが、彼の合理性は近代商人の規範ともなるもので、庄内本間家の強固な基盤を揺るがないものとした。光丘は米沢藩(往時の藩主は上杉鷹山)にも財政を援助した。彼は金を貸す際財政再建計画を求め、それを把握した上で米沢藩への貸付を行った。一方で金を返済できず、担保となった土地を取られ没落した百姓も存在したのは否めないが「働かざる者食うべからず、人は理念をもって生きるべし」を身をもって説いた光丘の軌跡は今でも歴然と輝くものを感じる。


また、幕末時に奥羽越列藩同盟にあって兵器において秀でたものがあった庄内藩の背後には本間財閥の存在が見え隠れする。童門冬二氏は庄内酒田の精神を「酒田という地域は商人が開発し、武士権力に堂々と立ち向かう自治精神を確立した町」としている。


横町挨拶

私はヤフーブログを通じて庄内の酒田に「つや姫日記のブログ様」というブロ友が出来ました。(以下つや姫様と表記)つや姫様からは現在の酒田の情報が次々と入って参ります。我が故郷である太平洋側の石巻とは裏腹に、日本海側に古くから栄えた港というところに、酒田の着目するべきものを感じております。つや姫様との誼を図る為にも、庄内酒田は自分にとっての研究の対象です。今回の再読による記事更新が、新たな研鑽に繋がることを確信しております。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


4四百二十横町

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