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福岡でインターネット上のトラブルが殺人事件となった。内容について敢えて深入りは控えたいが、本日はこの事件から得た教訓を話したい。それは今日の道徳から衰退しつつある謙譲語の存在である。私は仕事柄各種のセミナーに参加しているが、年輩の講師諸氏の中には謙譲を使わない使わないかたが結構居られる。否謙譲語どころか尊敬語さえ使わない。

中には「俺はお前らに教えてやっているんだぞ」とも受け取れる講師も居る。そして、そのかたがたの多くは受講者に対してタメ口を使う。自分の日当がどこから出ているのか?これをわきまえればタメ口など間違っても出て来ないのだろうが、謙譲語を知らない(或いは知っていても使わない)講師はお客様である受講者に平気でタメ口を使うのである。


学校教育の変貌とともに、我が国の道徳が変わりつつある。現代社会は必ずしも謙譲語を必要としないが、より円滑な人間関係を望むなら謙譲語を身につけるべきである。ビジネスで例えれば、最近は「当社」と「弊社」を使い分けられる社会人が減ってきている。私はこれを使い分けられてこそ、初めて一人前の社会人と考えている。

謙ることは相手に対して害する気持ちがないということの証である。これを使わずに尊敬語のみで応対するやりかたもあるが、限界がある。限界というのは誤解を生ずる可能性があるということである。但し、尊敬語と異なり謙譲語は簡単に身につくものではない。桃栗三年、柿八年という言葉があるが、謙譲語はそれなりの年季と実践期間を要して、徐々に磨かれてゆくものであると私は捉えている。


謙譲語の起源を辿れば、謙譲語は尊敬語とともに我が国の武士道の中核を成した儒教の古き遺産である。接客マナーを例に取れば、相手を殺めるつもりがないという意思を伝える為、人の話を聞く時は手を前に組んで聞き手である右手を左手の下にする。暗に「私は武士であり、刀を差していても斬り掛れない状態ですよ」と相手にメッセージを放つのがこの作法である。従ってこれも立派な謙譲の作法と言っていい。若い世代の多くはこうした理屈がわからずに只見よう見真似でやっている。私はここに歯痒いものを感じるのである。

※私が普段から取り組んでいる武士道十箇条(藩政時代に於ける会津藩の戒律と酷似しているのに注目)



自分のブログライフで用いる謙譲語のメリットを述べたい。自分は「恐れながら」をよくブログで使うが、これには「己の領分を越えての進言を何卒ご了承ください」という意味が込められている。私はこうした裁量は過去の遺産でなく、現在でも美徳として通用するものと受け止めているのである。ビジネスに於ける弊社と当社の使い分けもこれに似た意味合いがある。 

「桃栗三年、柿八年」という諺があるが、私はこうした経緯を経て謙譲語をスムーズに使えるようになるのに、十年以上は要した気がする。さて、「尊敬語と謙譲語の使い分けで何が得られるのか?」という問にお答えしたい。「この二つを自分のものとすることによって話術に幅ができ、自分の誠意を伝えることで、少なくとも以前より人の心を掴むことが可能になった」ということである。

もちろんこうした志向は完成に至ったものではなく、まだまだ自分は発展途上国の域を出ていないと心得る。これからの課題としては、様々な人との社交を通じて、常に自分を磨いて行かねばならないものと感じている。生涯学習の掲げる「日々是修行」こそ目指すべき道と心得るである。

横町挨拶
私は自分の価値観を人様に押し付けることを極度に嫌います。従って今回の記事はあくまで自分の考えを述べさせて頂いただけです。但し、福岡で起きた事件を思えば、加害者か被害者のどちかかが謙譲語を使えれば、このような凄惨な事件には至らなかった。自己主張も悪くないが「押すべきところは押し、引くべきところを引くのは理の当然」これは孫子の兵法の極意でもございます。

本日は、今回の事件で亡くなられた被害者のかたのご冥福を祈りながら、謙譲語がけして過去のものでないことを申し上げたい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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