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本日は2006年にNHKで放映された「その時歴史が動いた」より、「イギリスから見た薩英戦争」について画像を交えながら振り返ってみたい。尚、これをブログに取り上げる動機となったのが、ブロ友の不あがり様の「生麦事件」への言及(不あがり様は事件の起きた場所である横浜市に在住)である。不あがり様には、改めて御礼を述べたい所存である。

1イギリスから見た薩英戦争

生麦事件の起きる3年前の安政6年(1859年)、幕府との通商条約批准の為、イギリスから使節団がやって来る。この時全権を任された外交官がラザフォード・オールコック(1809~1897)であった。オールコックはイギリス艦隊の武力を盾に、来日早々威力外交を展開した。但し、彼には弱み(第二次アヘン戦争終結の為、軍艦が中国に派遣されており、たった一隻すら日本に船を派遣できない内情)があった。彼はそれを隠す為にも、ひたすら高圧的に振舞う必要があったのである。

2オールコック

その頃、薩摩藩の最高実力者である島津久光(1817~1887)は幕府とは別にイギリス艦隊の動向が気になっていた。地理的にもイギリス艦隊に最初に狙われるのが薩摩と踏んだからである。久光はイギリスとの戦いに備えて軍事力を強化していた。

3島津久光

そんな折、文久元年(1861年)7月にイギリス公使館襲撃事件が起き、オールコックらが攘夷を唱える14人の浪士たちに命を狙われた。(英国側の三人が重傷を負いながら拳銃で応戦し、かろうじて追い払う)オールコックは日本人の心の中に、攘夷の気運が高まってきているのを肌で感ぜざるを得なかった。事件が起きた翌年にオールコックは自ら休暇を願い出て帰国してしまう。イギリスは代理公使としてニールを派遣する。

4イギリス公使館襲撃

文久2年(1862年)8月に横浜で生麦事件が起きる。薩摩の島津久光の1000人の大行列に馬を乗り入れたイギリス人一行(4人)が無礼打ちに遭い、一人が殺害され、二人が重症を負った。生麦事件は事件が起きた生麦村にちなんでつけられた名称である。(現在は横浜市となったが、生麦という地名は残っている)

※薩摩藩士に斬殺される英国人チャールズ・レノックス・リチャードソン(NHK「その時歴史が動いた 幻の大艦隊 イギリスから見た薩英戦争」より)
5生麦事件

ニールは事件の後、艦隊の派遣を要請したが、中国で起きた太平天国の乱鎮圧の為、すぐには来れない状態であった。ニールが艦隊の到着を待ち続けて半年後の文久3年(1863年)、ついに日本に艦隊が派遣される運びになる。(中国での戦争終結の為)

6イギリス艦隊来日

12隻の大艦隊を後ろ盾として幕府や薩摩から賠償金を取れると踏んだニールは、薩摩に2万5千ポンドの大金を要求したが、島津久光がこれに応じなかった為、ついに薩摩に艦隊が派遣される運びとなった。

※再び高圧的な姿勢で迫るニール

7ニール2万5千ポンドを請求

ニールからの手紙を翻訳した福澤諭吉が「主犯の者」と訳すべきところを、誤って「島津久光」としてしまった為、誤解を生み薩摩の激高を買ってしまったのである。

8首を差し出せ

江戸から薩摩へ7隻の軍艦が派遣された。幕府から既に10万ポンドの賠償金を得た艦隊には楽観ムードさえ漂い始めていた。しかし、これが大きな油断に繋がることになる。

9鹿児島湾入港

薩摩藩は湾のあちこちに大砲を設置し、手ぐすねを引いて艦隊の到着を待っていたのである。文久3年(1863年)7月2日、ついにその時がやってくる。

10薩英戦争要図

薩摩の砲台が一斉に火を吹いた。不意打ちを喰らったイギリス艦隊は暫く応戦すらできなかった。賠償金(10マンポンド)の箱が弾薬庫の扉を塞いでいたのである。イギリス艦隊が反撃に出たのは砲撃開始から二時間後からであった。この時射程の長い艦砲射撃で薩摩の町は大きな被害を受けた。但し、薩摩も負けてはいなかった。その後に放った一発の砲弾が旗艦・ユーリアラス号に命中し艦長と副長が戦死すると流れは薩摩側有利となったのである。(イギリス側の戦死者13人、薩摩側戦死者5人)戦いから三日後、満身創痍となったイギリス艦隊は薩摩湾から退却した。

戦いに勝ったと思われた薩摩だが、イギリスの圧倒的な武力をまざまざと見せつけられ、三箇月後の講和交渉で賠償金2万5千ポンドの支払いに応じた。最新鋭の武力を持ったイギリスを敵に回すよりも、手を結ぶべき相手としたほうが得策と踏んだ末の決断であった。

11大砲発射

横町利郎挨拶
偏った見方を避ける為にも、歴史は様々な角度で俯瞰しなければなりません。NHKの西郷どんでもそうでしたが、島津久光と言えば明治政府と対立関係にあり、頑迷固陋なイメージが強い印象でしたが、薩英戦争での対応を見る限り、硬軟織り交ぜた外交手腕も満ち合わせていたような気が致します。この後、英国と手を組んだ薩摩は一層強力な武器を手に入れるものとなります。

とかく島津斉彬や西郷隆盛、大久保利通がもてはやされる幕末の薩摩ですが、長州とともに明治維新の主役となっていった薩摩には、この時代に隠れた名君が居たと言ってもいいような気が致します。生麦事件の顛末で起こった薩英戦争が薩摩を一層強い藩に押し上げた気さえ致します。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

12五百六十横町
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