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戦国武将の中で織田信長は真っ先に情報戦略を実戦に取り入れた武将であった。本日は2000年にNHKで放映された「その時歴史が動いた 桶狭間の戦い 織田信長 逆転への情報戦略」の番組をもとに、信長の先見性を見て行きたい。桶狭間の戦いは永禄3年(1560年)5月19日(旧暦)に起きた戦いであるが、その後の大名の勢力を塗り替えるほどの極めて大きな戦いであった。

1桶狭間の戦い

天文20年(1551年)に信長が18歳で家督を継いだ時、隣国の駿河には大大名の今川氏が君臨していて、尾張の織田領を虎視眈眈と狙っていた。

2今川義元の尾張進攻

桶狭間の戦いにおける双方の兵力には大きな差があった。多勢に無勢、6倍以上兵力が違うと織田軍に到底勝ち目はないように思える。

3両軍の数

しかし信長は戦略に長けていた。偽手紙の策略を以って今川方に寝返った武将を自刃させるなど、無類の戦巧者ぶりを発揮し、数の上での不利を徐々に詰めてゆく。

4策略

それでも、これだけの兵力差があると、真正面から行ったのではとても勝ち目はない。信長が狙うのは敵将・今川義元の首のみである。戦国時代における通常の戦では討ち果たした敵兵の首を取ることを手柄としたが、信長は桶狭間の戦いではそれさえも禁止した。義元さえ討ち取れば、今川軍は自ずと瓦解すると踏んだのである。

5首だけをねらった

決戦に備えて信長は囮戦術に出た。300騎の兵を囮として出陣させ、今川軍の兵力を分散するのに成功している。(最も信頼できる信長公記によると300騎のうち50騎が討ち死にしたという)

6囮によって勢力を分散

桶狭間に到着した義元は、ここで酒を飲んでいる。これまでの情勢は今川軍が圧倒的有利だが、勝利を楽観した上での油断だったのだろう。

7酒を飲む義元

最近の研究で今川軍が陣取ったのは低地ではなく山の上であったとされる。義元が陣を張ったのは標高65メートルほどの小高い丘であった。ここなら相手がよく見え、守りやすく攻められ難いと踏んだのである。

8桶狭間山

信長は丸見え同然の中で秘策を練った。桶狭間山にたどり着くにはどうしても低地(川の中州)の中島砦に移る必要があったが、後方の善照寺砦にまだ兵がいるようにのぼりを立て、カモフラージュしたのである。この陽動作戦が見事に功を奏するものとなった。

9中島砦への移動

最後は天候(桶狭間は暗雲と豪雨に見舞われた)も味方した。突入したのはわずかに二千だが、不意を尽かれた今川軍は戦況不利となり、義元は次第に周囲の兵を失い、最後は織田軍の毛利良勝によって討ち取られた。

10模式図

信長は戦利品として義元の刀を手に入れた。奪った刀(左文字の刀)はその後、戦の度に信長が持ち合わせたほど大事にしたという。この刀はその後の天下人である、豊臣秀吉や徳川家康の所有するところとなった。代々の天下人に受け継がれてきた名刀をたどると今川義元に行き着くが、改めて義元の存在感の大きさを認識する気がする。

11左文字の刀

横町利郎挨拶
皆さんは織田信長というとどんなイメージを持つことでしょう。彼は若い頃、奇行や姿格好から大うつけ(中味のない人物)と呼ばれてきました。これは単に馬鹿な振りをしていた為とも言われますが、彼は無類のへそ曲がりでもありました。常軌を逸して神仏をも恐れないところは伊達政宗とも似ていますが、信長は鉄船を造るなど、超現実主義者であり合理主義者でもございました。逆に言えば特徴のない凡庸な人物では彼のような大胆極まる制度改革(朝廷を蔑ろにしたり、武士から土地を取り上げ兵農分離を推し進める)は出来なかったことでしょう。それだけに彼には敵も多かった。

彼が家臣である明智光秀に本能寺で討たれたのは因果応報との見方もございますが、織田信長こそは、これまでの戦国時代に大きな一石を投じた人物でした。自分も合理主義的な面があるのでそんな信長が殊のほか好きです。織田信長のことを書いたのは今回で二度目でしたが、これを機にこれからも随時書いて行きたいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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12五百六十横町
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