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織田信長が臨んだ戦いで「桶狭間の戦」とともに、双璧に位置するのが「長篠の戦」である。 但し、長篠の戦は織田軍独自での戦いではなく、徳川家康と連合を組んでの戦いであった。甲斐の大大名・武田軍に台頭する勢力を誇った織田信長であったが、東の駿河や三河の備えを固めるには徳川家康の存在が不可欠だったのである。


両者の思惑(往時の家康にしてみれば、まだまだ小大名で武田と戦うだけの力がなかった)が一致しての連合だが、本日は長篠の戦について触れながら両者の結びつきについて述べたい。今回参考にした資料は島崎晋氏著「日本の十大合戦 歴史を変えた名将の戦略」である。尚画像についてはNHKの歴史番組である「その時歴史が動いた」の第138回「長篠の戦、戦国を変えた両雄の決断」を引用させて頂いた。


1信長と家康


先ずはこの戦いに至る前の各大名の動きを説明したい。先ずはこの勢力図をご覧頂きたい。16世紀半ばまで織田氏と徳川氏は中日本における一つの存在に過ぎなかった。しかしながら、天文20年(1551年)織田信長が家督を相続することで、その均衡は大きく崩れて行く。


2十六世紀半ばの勢力図


・ 永禄3年(1560年)桶狭間の戦で今川義元を討った織田信長は念願だった尾張美濃を平定する。

・今川氏の人質だった家康が三河に戻り、一大名として独立する。(家康は今川義元を討った信長に畏敬とともに恩を抱く)

・永禄5年(1562年)織田信長徳川家康の間に同盟が成立する。(両者の思惑が一致する)


3同盟を結ぶ両者


・武田信玄は弱体化した今川氏に着目し家康と同盟を結び、領土拡幅を狙った。(織田、武田、徳川の三者の関係は極めて微妙)永禄11年(1568年)には信玄が今川勢を薩埵山で破り駿府に迫った。このことから、徳川と武田の関係は一気に悪化。領地を奪われまいとする家康と激しく対立する。


4六十年代後半の勢力図


・元亀元年(1570年)織田信長が越前の朝倉氏を討つ為、家康に出陣を求め、家康は3千の兵を率いて信長軍と合流する。

・この時、信長と誼を通じていた浅井長政が突如反旗を翻し朝倉側に援軍を出す。

・このままでは挟み撃ちに成りかねないと感じた信長は危険を察知し、戦場を羽柴秀吉らに任せて脱出する。(このことは家康には知らされないままであった)

・劣勢となった家康軍はこの戦いで多くの兵を失い犠牲を強いられた。

・織田信長は朝倉と浅井への復習の為、戦いの準備をする。そのわずか二箇月後、姉川の戦いが起きると再び家康は信長から援軍を出すよう求める。

・家康の奇襲が功を奏し、織田、徳川軍が勝利を収める。(信長、家康の奮闘を大いに讃える)

・この後、家康は三河を出て遠江の浜松に城を移した。

・元亀2年(1571年)武田信玄が徳川領に進攻し、高天神城(遠江)や足助城(あすけじょう:三河)を攻め、足助城を落城させる。


5七十一年頃の勢力図・武田と徳川


・元亀3年(1572年)武田信玄は遠江の二股城を落とし、三方ヶ原で織田・徳川連合軍と戦い、勝利を収めた。(家康は命かながら浜松城に逃げ帰る)


6七十二年頃


・同年10月、武田信玄2万5千の兵を率いて徳川領に攻め入り、家康(手勢は8千ほど)は信長に援軍を要請する。

・同年12月、信長が派遣した援軍の数はわずか3千であった。(各地の戦いの為、このあたりが精一杯か?)信長は篭城戦で時間を稼ぐよう家康に指示する。

・この時、武田軍は浜松城の直前で進路を変えて折り返す。

・武田軍の挑発的行動とも取れる動きに家康は激怒。織田軍と合わせた1万1千の兵に出陣を命ずる。(三方原の戦い)

・家康、武田軍に破れ、命かながら浜松城に逃げ帰る。信長はこの敗戦に激怒し、家康を「体たらく」と激しく断罪する。


7体たらく


・元亀4年(1573年)武田信玄は三河の野田城を落としたが、帰国の途中で急死する。(勝頼が跡を継ぐ)

・天正2年(1574年)武田勝頼は織田がたの明智城(美濃)や徳川がたの高天神城(遠江)を落城させる。(援軍要請してもこれに応じない高天神城の城主・小笠原長忠は家康の采配に大いに不信感を抱きつつ降伏する)


8七十四年頃の勢力図


武田の手によって落城した高天神城。


10高天神城


・わずかの差で援軍がかなわなかった信長は家康の労を労い、家康に莫大な金を与えた。

・家康は奥三河の城主奥平貞能の子である信昌に時分の長女を嫁がせて味方にする。

・家康、武田がたの居城・長篠城を攻め落城させ、城主に武田から寝返った奥平信昌を任命する。

・勝頼は奥平の裏切りに激怒し、人質であった信昌の許嫁、弟、叔父を磔に掛け処刑する。(奥平信昌の武田への憎しみは憎悪と化した)


9磔の刑


・天正3年(1575年)武田勝頼、1万5千の兵を率いて出陣。奪われた長篠城奪還を目指す。

・同年5月、長篠城(篭城は500人ほど)は武田の大軍に包囲され、兵糧攻めが行われる。ここで窮地に陥った家康は信長に援軍を要請する。消耗戦を強いられた篭城兵の中には、本当に援軍が来るのか疑心暗鬼に陥る者も現れた。(織田信長の援軍を待つ間に、偵察の為、一時城を抜け出して直ちに戻った奥平家臣・鳥居強右衛門の烈士ぶりは有名となる)

・同年5月14日、ついに織田信長の大軍団(3万)が三河に姿を現した。信長は家康と合流し、武田軍を設楽ヶ原におびき出す作戦に出た。山の斜面を利用した陣はさながら強力な要塞と化していた。(戦国最強と言われた武田の騎馬隊との決戦に備えて、大量の鉄砲や堀、土塁、馬防柵などが入念に準備される)

・織田信長3万、徳川家康8千、合計3万8千の連合軍が待ち構える設楽ヶ原に、1万5千の武田軍がおびき出された。騎馬戦を得意とした武田軍も8時間の激戦で壊滅的な被害を受けて退散した。ここに織田・徳川の同盟は遂に宿敵武田を退けたのである。


長篠の戦が展開された愛知県新城市設楽ヶ原


11新城市設楽ヶ原


横町利郎挨拶

前回紹介した桶狭間の戦いと異なり、今回の長篠の戦は中味の濃いものを感じます。織田、徳川とも、それは関わる大名が圧倒的に増えたからです。下克上、骨肉の争い。織田信長という人はそんな乱世を強かに生き抜き、あと一歩で天下統一を果そうとした人物でした。遺恨が遺恨を呼ぶ戦国の世にあって、戦場に従者を残して黙って引き上げるなど、信長は恐ろしいほどの合理主義者でありました。冷徹そのものの彼ゆえに、徳川の力が利に値しないなら容赦なく斬り捨てたことでしょう。


家康は信長に見放されそうになりながらも、これに耐え、ついに強敵の武田氏を倒します。ところで、この二人の年齢差は9歳です。家康から見れば、非常に付き合い難い相手だったにも関わらず、気の短い信長が終生縁を切らなかったことに着目したい気が致します。太平の世を向かえるまでまだまだ波乱は続きますが、信長の豪腕ぶりと家康の強かさが印象に残った長篠の戦と捉えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


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12五百六十横町

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