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天文22年(1553年)、美濃と尾張の国境に近い富田の聖徳寺で或る会見が行われようとしていた。会見に臨んだ二人は美濃の国を治める斎藤道三(60歳)と尾張の国を治める織田信長(20歳)である。道三は策略と陰謀で身内を次々と毒殺するなど、残念な手口で「美濃のマムシ」と言われ内外から恐れられた人物であった。これに対して信長は奇行などから「尾張の大うつけ」と呼ばれた人物である。柱にもたれかかり、わざと道三に無礼な態度をとる信長。


1柱にもたれかかる信長


さて、このはみ出し者同士の会見が、この後双方にどう影響を及ぼしたのか、本日はこのあたりから話を進めて行きたい。今回参考にした資料はNHKで過去に放送された歴史番組「その時歴史が動いた」の「信長と道三 改革者を生んだ非情の絆」である。非情の絆という言葉自体、何か尋常でない気配を感じるが、身内をも駆逐する二人のやり方は戦国時代の宿命と言えるもので、往時はけして珍しくないことであった。


3うつけ者


ここで美濃のマムシ・斎藤道三について触れておきたい。生年は明応3年(1494年、一説に1504年)で、親子二代で油売りから身を起こした人物であった。美濃守護の宿老長井家斎藤家に出入りしているうちに長井家の家臣西村三郎左衛門の土岐氏跡を継いで西村勘九郎と名乗る。享禄3年 (1530年)長井利安を殺して天文2年 (1533)から次々と名前を変え、享禄8(1535年)には稲葉山に築城してここに拠り、有力者の土岐頼芸を尾張に追って美濃国を押領し国主とな。同享禄18(1545年)には入道して道三と称した


2道三肖像画


下克上の世とは言えこれだけで相当険しいものを感じるが、アウトロー同士という意味で信長との接点も重ねる。但しこの二人が縁戚関係になるまで、美濃と尾張は隣国同士で過去に何度も領地争いを繰り返した敵同士であった。そう考えると、常軌を逸したとも言えるこの二人が舅と婿の関係になったことには何らかの因果を感じなくもない。


5領地


織田信長が戦で多用した長槍(全長6メートル)は有名だが、これは斎藤道三が好んで使った戦術で、敵を撃破する上で相当の効果があったと言われる。信長はこのような斬新な武器を取り入れる道三に見習うべきものを感じたことだろう。


6長い槍


こうして似た者同士とも言える二人は親しくなっていった。道三は長槍の他砲術も重視した武将であったが、これはご存知信長にも共通する点であった。


7砲術


その後の両者の出来事を箇条で表す。


・天文23年(1554年)織田氏の隣国の今川義元の軍勢が尾張に侵入し猛威を奮う。この頃兵力が覚束なかった信長が道三に援軍の派遣を求めた。道三の家臣の安藤守就が到着すると、信長は自分の居城である那古屋城を守るように依頼したという。(往時他国の軍勢に自分の城を託すということは有り得ないことであった)この時信長は今川軍を撃退し、武勇を示した。やがてこのことは道三の耳にも入り、「敵にして信長ほど恐ろしい男はいない」と言わしめたという。


・弘治元年(1555年)斎藤道三の長男の義竜が謀反を起こした。義竜は再三、道三から「後継者としての器量に欠ける」と罵られ、いつ殺されるのかという危機感をもっていた。反旗を翻した義竜の周囲には道三に不満を持つ者が大勢集結した。多勢に無勢、息子との合戦の前日道三は信長に向けて遺言状を書いた。それは「美濃の国を信長に託す」というものであった。実子の義竜に見切りをつけた道三が選んだ後継者は婿の信長だったのである。信長は義父である道三の援護に向かったが、時はすでに遅く翌日道三は義竜に討たれた。


・永禄3年(1560年)桶狭間で織田信長が今川義元を討ち取る。僅か4千の兵で今川軍2万5千を破った快挙であった。勢いのついた信長は早速美濃攻めを開始した。


・永禄4年(1561年)斎藤義竜が没してその子義興が後を継ぐ。根強い抵抗もあり、美濃はなかなか信長の手におちなかった。


・永禄6年(1563年)信長はそれまで住んでいた清洲城を離れ、美濃に近い小牧山に城を築いた。(小牧山城)近年の研究でこの城は城下町的な側面(商工業地域)があったとされる。


8城下町


この城下町を背景に信長は家臣の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じて、美濃の領主たちに寝返り工作を行った。信長は金銭も使ってこの工作を強力に進めていったのである。


・斎藤義興(道三の孫)は遊興や宴にふけり、斎藤家の跡継ぎとしては甚だ度量と器量に欠けていた。これを悟った美濃三人衆(美濃の領主たち)は永禄10年(1567年)主君に見切りをつけて信長につくことを決心し人質を出した。


・人質の到着を待たずして信長は出陣、斎藤義興が立てこもる稲葉山城を包囲した。到底勝ち目がないと見た義興が降伏し、ついに美濃は信長の手に入ったのである。信長はその後城の名前を岐阜城に改めた。信長は天下布武の印鑑を作り、天下人への意志を明らかにした。信長が京に上ったのは翌年の永禄11年のことであった。


横町利郎挨拶

今回の番組で面白いと思ったのはアウトロー同士の二人が引きつけ合ったことです。利害関係が一致したと言えないわけではありませんが、お互い似た者同士を感じた部分があったのではないでしょうか?わざと無礼に振る舞い、相手の出方をさぐる。一歩間違えば無礼討ちに及ぶ場面ですが、これを二十歳の若者がやってのけたところに、信長の尋常でない度量を重ねます。やはり常軌を逸するくらいでないと天下は狙えないとも感じます。


阿諛追従の徒はいつの世にも掃いて捨てるほど居るわけですが、信長のような切れ味を持った人物はそうは居ません。桶狭間の戦などに触れ、信長には強い運もあったと捉えていますが、運だけではなく、強運を呼び寄せるほどの才覚も備わっていた気が致します。「天下布武」の文言はイデオロギーとも解釈できます。力のほかにイデオロギーもあった信長に唯一欠けていたのが、仁(部下への思いやり)でした。


実は本能寺の変が起きる三箇月前に彼は明智光秀に折檻を加えていたのです。光秀にしてみればこうした仕打ちが不信感となり、徐々に謀反へと変わっていったのでしょう。本能寺の変についても近いうちに拙ブログで扱いたい所存です。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


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9五百六十横町

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