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ブロ友様の銀輪様に伊達騒動に関わった伊達安芸宗重の仙台屋敷の位置をご教示頂いたので、早速行ってみることにした。場所は青葉区の西公園通りの西側でYMCAのプールのほぼ向かい側である。立札の位置がいまいちで後ろに駐輪場が見えているが、家格は伊達一門の第四席ゆえ、敷地は数千坪にも及ぶものと推察している。

1立札と駐輪場

この肖像画がいつ描かれたのはわからないが、かなり精巧である。遠田郡涌谷の菩提寺に祀られている像を手掛かりに、比較的最近描かれたものと思われるが、本人の肖像に近いか否かは別にして厳格で正義感の強い人柄が滲み出た肖像画と捉えている。

ここで仙台藩の重臣・伊達安芸宗重について触れたい。生年:慶長20年(1615年)~没年:寛文11年(1671年)涌谷伊達氏(二万三千石)二代当主。伊達騒動の主要人物の一人。

知行地紛争(谷地紛争)の件などで伊達兵部宗勝らから度重なる冷遇を受けていた伊達安芸は、伊達兵部一派の一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固める。安芸の考えを知った茂庭周防や片倉小十郎景長らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして上訴を諌止したが、安芸はこれを聞き入れず寛文10年(1670年)12月、申し条を記した上訴文が幕府に提出される。

この告発を受けて幕府は江戸での詮議を決定し、幕命により安芸は翌寛文11年(1671年)2月2日に250名の家臣を引き連れて涌谷を出発、2月13日江戸に到着、3月27日老中酒井雅楽頭忠清邸での評定中に原田甲斐に斬殺されたとされるが、幕府陰謀説もあり真相は闇の中である。

2伊達安芸宗重肖像

この資料は新人物往来社の「歴史研究」1990年8月号から引用したが、掲載されていた伊達安芸邸の位置が数百メートルほど北にずれていた。私が仙台市民センターのある場所とばかり思っていたのは、この資料の為である。本日正式な場所がわかったので書き直した。古い地図で見難いが、仙台市民会館と仲の瀬橋のほぼ中間辺り(YMCAのプールとは道路を挟んでほぼ向かい)である。

3重臣屋敷地図

屋敷跡と思しき辺りには植栽があり、梅も植えられていた。

4植栽原図その2

これは最近出来たばかりの遊歩道だが、恐らくこの崖いっぱいまで伊達安芸の敷地だったのであろう。

5遊歩道

少し、南に行くとこのような石碑がある。常盤木学園(仙台市宮城野区小田原にある私立の高等学校)発祥の地と文字が刻まれていた。かつての伊達安芸邸跡地が学園の敷地に宛がわれたもの(或いは隣接か?)と思われる。

6常盤木学園発祥の地

仲の瀬橋を渡って対岸の川内地区に渡って伊達安芸屋敷跡の辺りを撮影してみた。屋敷に面する河岸段丘は二十数メートルはありそうである。川の水を汲むには相当大変だったのではないだろうか?(遠回りしなければならなかったはず)

7対岸の絶壁

横町利郎挨拶
自分は或る顧客に歴史随筆を寄稿していますが、伊達安芸宗重の館(実質的には城そのもの)のあった宮城県北部の涌谷町には5年前に取材に行きました。涌谷城は石垣も高く周囲には堀が巡らされ、侍屋敷らしい町の構えに二万三千石取りの家臣の威光を感じて参りました。

彼は一説によると自分の領地を取り戻したいだけという見方もございますが、私はただそれだけではなく、奥底には仙台藩乗っ取りの首謀者である伊達兵部を駆逐する為に、身を粉にして尽力した人物と見ています。後になって、彼は藩の為に殉じたとされ、主君の仙台藩第4代藩主・伊達綱村から「盡忠」(ひたむきに主君に忠誠を貫くこと)と書かれた掛け軸が贈られました。どれだけ彼の功績が讃えられたのかがわかる一こまです。

それだけに本日彼の仙台屋敷跡がはっきりとわかったのは、自分にとって大変大きな収穫でした。銀輪様にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい所存です。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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8六百六十横町
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コメント

お早うございます、

広大な伊達安芸の敷地だったのですね、
綺麗に整備された遊歩道の散策も気持ちが良いでしょうね✌️

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URL | 雲MARU ID:-

私も初めて分かりました。
「樅ノ木は残った」は名作ですが、本当のところはどうだったのでしょうね。

URL | motoyoshi ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

歴史研究という著物を丸飲みにして伊達安芸の屋敷跡地を誤って認識していました。本当の位置が判明してよかったと思います。ブロ友様の存在はやはり有り難いですね。おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

motoyoshiさん、ありがとうございます。

実はだいぶ前のことですが、或る季刊誌に原田甲斐のことを忠臣と書いたら、抗議文が寄せられ、仙台市博物館に出向いて学芸委員のかたにお会いしたことがございました。
本当のところは「樅ノ木が残った」のストーリーも、或いは浄瑠璃や歌舞伎の「伽蘿先代萩」も、どちらも正しいとは言えないということです。

真実は闇に葬られたと言っていいわけですが、登場人物の中では烈士と言われ米ヶ袋で斬首された伊東七十郎に特に興味を抱いています。伊達安芸も忠臣か逆臣で意見が分かれており、白か黒かという論点での人様との討議は避けたいというのが自分の本音です。

今回は伊達安芸仙台屋敷跡地が見つかり、感動の極みにございます。本日も厚誼を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

横町さん、こんばんは

「歴史研究」の地図の件ですが、ご指摘のように片倉小十郎邸は間違いです。
以前、あたった古地図では、忘れましたが他の侍屋敷でした。

立派な回遊式の庭園跡も残っているので、重臣だと思います。
なお、仙台市の看板では片倉小十郎邸は、大橋の川内側の橋のたもと一帯となっています。



川内在住の町人、 中間や商人は仲の瀬橋を使ったようです。
絵地図によると、中に瀬があって、、簡単な橋が2つ架かっていたようです。
今の仲の瀬橋あたりからは、なんとか登れそうですが、絵地図だと、もっと上流あたりに見えますが、今の地形だと登れませんね。

尚、伊達安芸屋敷にせよ、他の侍屋敷も四谷用水を使っていたのは間違いないと思います。
まず最初に侍屋敷、次に町家だったはずです。
その遺構も残っています。
大橋の大町側にも、防備の侍も多く配置されていたでしょうから、、四谷用水を流して、最後は広瀬川に落としていたようです。

尚、これについては、いつか書いてみたいと思っています。

URL | 銀輪 ID:-

銀輪さん、ありがとうございます。

四ツ谷用水の指摘は仰せの通りと察しております。この辺りは重臣が軒並み揃っていた場所ゆえ、恐らく初期段階に整備されたものと捉えています。
ところで、河岸段丘の登る拠点としては「へくり沢」というのがありまして、現尚絅学院中学校・高等学校の辺りでした。ちょうど伊達安芸邸を見た帰りに立札を発見して、川内方面に通ずる大規模な人工の沢が掘られていたようです。(地形は今でも残っていますが、所によって削られたり、盛られたりしています)近いうちに訪ねて是非記事にしたい所存です。

歴史研究の片倉小十郎屋敷は確かにおかしい(発掘調査された追廻地区の対岸では辻褄が合わないと考えていました)と思います。話がずれますが、この記事を書くのにモチベーションを揚げる為、YOU TUBEで「樅ノ木は残った」大河ドラマ版(何度も削除されながら、復活したようです)を見ながら書きました(笑)

おはからいにより、本日も有意義な情報を提起して頂きました。コメントを頂きありがとうございます。

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