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前回まで織田信長が臨んだ戦を記事にしてきたが、今回は彼の最期となった「本能寺の変」に焦点を当て、彼が往時の日本に何をもたらしたのかについて掘り下げてゆきたい。参考にした資料は前回同様、NHKの歴史番組「その時歴史が動いた」の「信長暗殺を命じた男 新説・本能寺の変 浮上した黒幕」である。


1本能寺跡地


往時の信長は独断に走る傾向が強く、抵抗勢力も多かったが、彼は抗う者の殆どを退けるという強引な手法で次々と、その野望を遂げていった。時に力でねじ伏せ、時に用意周到な策略を使って、あの手この手で難関を打開し、立ちはだかる敵を次々と駆逐していったのである。こうした強権的手法は周囲と凄まじい摩擦を生むのは必定と言えるが、信長自らが信頼を寄せていた明智光秀に討たれたのは、徳を蔑ろにした因果なのかも知れない。ところで、最近の研究で本能寺の変はけして光秀の個人的な動機で起きたものでないという。光秀の背後には信長を疎む勢力があったのである。では一体どんな勢力であったのかを羅列してゆきたい。

1、朝廷

室町時代、将軍の任命権は朝廷にあった。信長は朝廷の権力を表面上繕いながらも、武力にものを言わせてその利権を踏みにじって行く。信長の腹積もりは無能と言われた足利義昭を将軍に立て、あやつり人形とすることだった。前将軍の足利義栄の急死でその思いが実現する運びとなる。信長は単に朝廷に口出ししただけではない。信長は後に暦の改ざんも要求し、朝廷の権力を奪おうと考えていた。このような朝廷に対する侮辱が徐々に積もっていったのである。

2、将軍(足利義昭)

信長は自分が擁立した将軍・足利義昭が大名同士の和睦(上杉と武田)に及んだことに激怒した。大大名と言われたこの二大勢力が手を組めば、自分にとって大きな脅威となるのが目に見えていたからである。信長は義昭を追放し、これまでに下した命令を全て取り消すよう迫ったのである。名ばかりの将軍・足利義昭はこの屈辱的な信長の要求を受け入れざるを得なかったのである。これ以降、義昭は信長に激しい憎悪を抱くようになる。その後、義昭は毛利輝元に協力を求め、輝元はこれに呼応して水軍を派遣した。

3、石山本願寺

往時最大の宗教勢力であった石山本願寺は度々信長から莫大な経済援助を求められていた。これに耐え切れなくなった本願寺は全国の信徒に蜂起を呼びかけ、各地で一向一揆が勃発した。信長は大弾圧を行い、これに対抗し「根切り」と称して各地で大量の血が流された。(伊勢長島では2万人、越前では4万人が殺戮された)石山本願寺は武田信玄と同盟(同盟には足利義昭の後ろ盾があった)を結び、信長に対抗した。元亀元年(1570年)の比叡山延暦寺の焼き討ちはこのような状況下で行われた。補給路を断たれた本願寺は孤立しかかったが、毛利水軍の補給で再び息を吹き返した。しかし、天正8年(1580年)本願寺に天皇からの命令が下った。それは「大阪を退去し、信長と和睦せよ」というものであった。


※着々と築かれる信長包囲網


2信長包囲網


抵抗勢力の焦り、そして怒りへ

孤立を免れねばならない信長が目をつけたのは朝廷であった。信長は御所の修理を行うなどして、朝廷に便宜を図っていたのである。彼はただ単に猛々しい武将ではなく、硬軟織り交ぜた政治的センスも持ち合わせていたのである。こうして一時は朝廷をも味方につけ、信長は様々な合戦を勝ち抜いていった。もはや信長の勢いを遮る者は居ない?とも思われた。


この時信長は四年がかりで安土城を構築している。絢爛豪華極まるこの城は彼の権力の象徴でもあった。安土城築城に際しては天守閣の遥かに下のところに御所が造られた。暦への干渉もそうだが、やがてこれは朝廷から激しい怒りを買うものとなっていった。朝廷はここで動いた。天皇からの使者を信長に送ったのである。


使者が信長に伝えたのは「いかようにも官にも任ぜられ」(関白・太政大臣・征夷大将軍…如何なる官位でも信長殿の望みのまま与えます)というものであった。その時信長は即答を避け「すべては都で天皇にお話する」とだけ答えてもったいぶった。


3御所を見下ろす安土城


申し出を蔑ろにされた天皇の側近たちは激しく動揺した。もし信長が天皇に会い、胸中を曝け出せば朝廷を否定されたも同然と考えたのである。これは義昭も同様だった。もし信長が将軍になれば自分の立場は全くなくなるという絶対的な危機感であった。本能寺の変勃発の一箇月前のことであった。


ここで明智光秀について触れておきたい。彼は元々足利義昭の家臣であった。極めて高い教養を武器に、彼は義昭と信長の間を取り持って行く。但し途中で無能な義昭に見切りをつけた。成り上がりながら、天下布武をイデオロギーに掲げる破竹の勢いの信長と義昭とでは比べる余地すらなかったのである。


番組でゲストとして登場する藤田達生氏は、信長のカリスマ性と光秀が身につけた高い教養が互いに引きつけあう形で、主従関係成立に至ったと考えていいと述べている。信長の家臣となった光秀は丹波などの各地で概ね戦功を挙げ、一挙に出世をしていった。天正8年(1580年)には畿内地方の34万石取りの大名となっている。


4お互いの思惑


信長から絶大な信用を獲得したか?に見えた光秀だが、その後側近である斎藤利三と縁戚を結んだ四国の長宗我部氏が、信長から討伐の対象となり、流れが大きく変わっていった。


5長宗我部との仲立ち


信長の討伐軍編成に際し、斎藤利三はこのとき、光秀に謀反を促す書状を送っている。そして本能寺の変の数日前に光秀に思いも寄らぬ沙汰が下った。何と畿内34万石を召し上げ、出雲、石見へ国替えせよというものであった。更に足利軍と戦う秀吉に加勢せよという命令も下った。秀吉の部下にされたことで彼のプライドはずたずたに引き裂かれたのである。


信長駆逐をもくろむ「本能寺の変の黒幕」はこの光秀の動揺に着目した。その黒幕とはずばり足利義昭(藤田達生氏の最新研究で判明)であった。事件の直後に義昭は光秀に「御入洛のこと即ち御請け申し上げ候」(どうぞ京都に入ってください)という書状をしたためたのである。無能と言われた足利義昭が裏で幕を引いた本能寺の変、現在ではこの説が有力となっている。信長を討った後も自分は広く支持される。光秀の脳裏にはそんな思いが飛来していた。そしてその時天正10年(1582年)6月2日が訪れる。光秀率いる1万3千の兵が本能寺を取り囲んだ。多勢に無勢は火を見るより明らかだった。こうして信長は49歳の生涯を閉じたのである。


6炎の中自害する信長


横町利郎挨拶

織田信長シリーズもこれで第6回となりました。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀と聞いています。私は最近の明智光秀の研究に触れ、彼のイメージが変わりつつございます。それは彼が私怨の為に主君・信長を討ったのではないという心情が湧いてきたからです。冷徹な信長と違い、彼には家臣からの厚い人望もあったと聞いております。


光秀贔屓の考えに及べば、残念だったのが秀吉への根回しがなかったことです。もっとも光秀と秀吉はライバルだったので、このような策さえ入り込む余地すらなかったのかも知れません。落ち武者狩りに遭ったのも悲運でしたが、このあたりを含め、光秀が日本の歴史を大きく動かした人物であることは間違いございません。大河ドラマと史実は勿論別物で、はっきりと分けなければならない部分ですが、自分の中で更に光秀の実像に迫りたいという欲求は日に日に高まってきています。


何事も即実行、気が短くて豪腕無比な信長と教養人で改革を好まない光秀の関係は対照的ですらあります。私はこのあたりにも着目し、信長シリーズを書いて参りたい所存です。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


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7五百六十横町


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