fc2ブログ
本日は休みを利用して高山樗牛ゆかりの瞑想の松を訪ねた。瞑想の松は東北薬科大学の学内にある。時刻はちょうど正午頃である。学生と見られる三人連れが私の前を通って瞑想の松のほうに歩いていった。この道は友情の小径と名づけられているが薬科大学の学生の通学ルートにもなっているようだ。それにしても暑い。今日の仙台は最高気温36度と酷暑であった。吹き出る汗をタオルで拭きながらの訪問であった。

1石段

これが高山樗牛ゆかりの瞑想の松である。樗牛がこの松の辺りで瞑想にふけったのは明治25年(1892年)のことだった。従って今から127年前のこととなる。この時彼が瞑想にふけったものが何であったのかは後で述べたい。

2立札

大正8年(1919年)に撮影された瞑想の松をご覧願いたい。昭和40年仙台市教育委員会発行『仙台の文学散歩』より。今からちょうど100年前の瞑想の松である。この辺りは昔天神山と言われた。

背景は極めて興味深い。往時は周囲が山林で現在とはだいぶ異なるようだ。(松の傾きから言って西側から東に向かって撮影したものと推察)東北薬科大学の開設は昭和14年(1939年)のことなので、当然ながら背景に写っていない。

大正8年の瞑想の松

昭和初期の頃の付近の地図をご覧頂きたい。道も見られるが、往時は住宅もまばらで付近の殆どは山林のようである。

12昭和初期の地図

Google3D立体画像で瞑想の松と展望台(昭和49年建立)を確認して頂きたい。西側を走る市道には「瞑想の松通り」と命名されているようだ。このスケールだと高低差が伝わらないが、周囲の景観や地図の等高線から此処が高台であるのをおくみ取り頂けるものと察している。青葉区の晩翠通も然りだが、文学的な薫りが伝わる町名である。

3Google3D立体画像

高山樗牛(1871~1902)

4高山樗牛

本名は林次郎。羽前国の鶴岡(現山形県鶴岡市)の庄内藩士の家に生まれる。一歳のとき伯父・高山久平の養子になる。福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の旧制第二高等学校に入学する。第二高等学校時代、詩人の土井晩翠は樗牛の一期後輩に当たる。明治26年(1893年)東京帝国大学哲学科入学。明治27年(1894年)読売新聞の懸賞小説に、『滝口入道』が入選新聞連載される。(『平家物語』から題材を取ったもので、生前は匿名であった)『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。

明治29年(1896年)に大学を卒業。母校仙台第二高等学校の教授になるが、往時既に文壇の寵児となった彼にとって仙台は物足りなかったらしく翌年には辞職して上京する。その後博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。「帝国文学」や「太陽」などに文芸評論を書く。「日本主義」を鼓吹する評論を書く一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐって森鴎外とは論争を行った。

明治33年(1900年)には文部省から、美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。しかし、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。結核の病魔が彼を襲い、翌々年の明治35年(1902年)に逝去。享年32歳であった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
歌碑には「いくたびかこ々に真昼の夢見たる 高山樗牛冥想の松」と刻まれている。歌碑の建て主は往時の地主の萱場製作所社長の萱場四郎、作者は土井晩翠である。

5瞑想の松歌碑

これは展望台からのロケーションである。名勝の地と称されるだけあって、瞑想の松からの眺望は素晴らしい。周囲に視界を遮る樹木がないのもその一因だが、正に瞑想にふけるには相応しい場所である。

6付近は住宅地

樹齢約670年の黒松は仙台市の保存樹木に指定され、定期的な手入れが施されている。

7樹齢675年

展望台はけしてこの空間を俗にしていない。意匠設計の妙を感じる趣である。

8展望台

都心方向のビューである。夏空の下、遠くの市街地のビルが霞んでいた。これだけで十分ポエムになりそうな気がする。

10市街地遠望

樹齢670年の松はまだまだ壮健そのものだが、鉄骨のつっかえ棒で倒木の危機を回避しているようだ。

11瞑想の松だ

横町利郎挨拶
旧制第二高等学校時代の樗牛は造作の大きい容貌で覇気と進取の気性に富み、目をらんらんと輝かし、肩で風を切って校内外を堂々と闊歩していたと言います。(笑)さて、冒頭で述べた明治25年(1892年)に於ける瞑想の対象ですが、実は恋患いでした。哲学的思考を得意とした彼も一端の男子でした。昭和40年仙台市教育委員会発行『仙台の文学散歩』によると、三味線の音がうるさくて下宿を変えたところ、そこの美しい娘さん(M子)に一目惚れしたらしいのです。但し。M子には既に許婚が居て叶わぬ恋に身を焦がしたのが実情だったようです。

瞑想の理由はともあれ、彼の熱き志は長らく二高生の間で語り継がれました。「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」(意味:目先のことにとらわれず、志に向かって努力し、立派な人となって今以上のすばらしい社会を作ろう)と喝破した先輩・樗牛の遺風を慕い、この丘は後に「光の谷」とも称されました。本日は猛暑の中の瞑想の松訪問でしたが、樗牛の偉大な志の余韻は今暫く続きそうです。やはり彼は非常に器の大きい人物でした。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

※ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。


13六百六十横町
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)