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本日は文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に起きた元寇蒙古襲来)について、記事を進めて行きたい。本日参考にした資料はNHKの歴史番組の「その時歴史が動いた 北条時宗、起死回生の決断~モンゴル軍壊滅の時~」である。

1北条時宗、起死回生の決断

ユーラシア大陸の草原地帯に出現したモンゴルは農耕民族とは異なり牧畜を主とした遊牧民族であった。人によって赤子の時に蒙古斑というものがあるが、黄色人種と言われる我々日本人も、彼らに近い遺伝子を持っているに違いない。但し優れた運動能力、体力という意味で彼らを仰ぎ見ざるを得ないのは、最近の大相撲の横綱の顔ぶれを見ればわかる。

勇猛果敢な気風と屈強な肉体を併せ持つ遺伝子は馬で広大な原野を駆け回る日常から培われた気がする。彼らの征服は組織化された強力な騎馬隊が基盤となり、優れた機動力と武力で、勢力を拡大して行った。そしてチンギス・ハンによるモンゴル民族統一から僅か数十年後の1260年、第5代皇帝としてフビライ・ハンが即位した。フビライ・ハンにとって気掛かりだったのは南宋がしぶとく抵抗を続けていたことだった。南宋を落とす為には包囲網を…そんな考えが極東の島国・日本への国書へと繋がった。

2広大な領土

最初のうちは下手に出た。一見すると親交を結びたいとの内容で穏やかな内容であったが、文末は「応じなければ兵を派遣するぞ」という脅しの一言が添えてあった。

3送られた国書

幕府の実力者・北条時宗はこれを無視した。モンゴルがどれだけの強国なのか?これを推し量る術もないほど、情報が不足していたのである。言葉を変えれば怖いもの知らずといったところか…

4時宗拒否する

国書を無視されたフビライ・ハンはモンゴル帝国の力を見せてくれると意気込み、ジャブを繰り出す。文永の役である。隠岐の島や対馬で起きた惨劇は今でも島の言い伝えに残っている。戦争ではいつの世でも弱い者が狙われるが、この戦も例外ではなかった。モンゴル兵は島の女たちの手の平に穴をあけ、そこに縄を通して船にくくりつけてさらっていったという。その後モンゴル軍は博多に上陸した。この時のモンゴル軍は2万6千、迎え撃つ日本軍はたったの3千であった。

5文永の役

当初百戦錬磨のモンゴル軍と日本軍では戦にならなかったという。それまで一騎打ちが原則だった日本の武士の戦(戦の前に名乗りをあげる)など通用するわけはなく、一人の武士が数人のモンゴル軍に囲まれ、次々に討ち取られていったのである。モンゴル軍にとって戦における作法や卑怯などという観念は一切なく、どんな手段を用いても敵を倒すことのみを戦術としていたのである。

モンゴル軍の兜や弓矢は軽量化され、武具や防具の多くは機能性を重視し実戦に則したものであった。但し、これはモンゴルの単なるデモンストレーションであった。彼らは博多の町は焼き払ったものの、たった一日で戻っていったのである。前哨戦とも言える文永の役における彼らの狙いは圧倒的な戦力の違いを見せ付けることであったようだ。

6モンゴル軍

脅しに十分な効果があったと見たフビライ・ハンは翌年再び国書を送ってきた。彼にしてみれば、日本は今度こそ屈服してひれ伏すと考えたのかも知れない。

7二度目の国書を送る

決断を迫られた北条時宗が選択したのは徹底抗戦(使節全員を斬首)だった。

8斬首を命じる

実は彼には南宋の僧から或る情報がもたらされていた。モンゴル軍侵攻の日付を掴んでいたのである。

11進攻の予定日がわかる

再び攻め寄せる敵に備えて博多には防塁が築かれた。(防塁跡は今でも残っている)時宗は文永の役の二の舞(モンゴル軍に簡単に上陸を許した)を踏むまいという決意があったのである。

10防塁

いよいよその時が近づく。ここでモンゴル軍にとって大きな誤算があった。東路軍と江南軍の到着がバラバラ(一箇月近いタイムラグを生じた)になったのである。それとモンゴル軍は「戦いが長引くと台風の餌食になる」という危険予知も持ち合わせてなかったようである。上陸を阻まれた東路軍の船に日本軍はゲリラ攻撃を仕掛けた。そんなこともあって東路軍は一度沖に出て友軍である江南軍の到着を待った。(その後兵糧が尽き疫病の流行などで旗色が悪くなる)

12合せて14万

長崎の平戸近くで合流を果した両軍を待っていたのは暴風雨であった。船の作りが粗末ということもあり、モンゴル軍は壊滅的な被害を受けた。資料によると、この時生きて帰ったのは十万中、たったの三人であったという。

13暴風雨に襲われるモンゴル軍

フビライ・ハンは遠征失敗に怒り狂い、三度目の船団派遣を検討するが、挫折(南方アジア進出に失敗)があり、これを断念せざるを得なかった。実はこの時フビライに仕えていた一人の著名な西洋人が居た。マルコ・ポーロである。往時マルコ・ポーロは元寇の一部始終を見聞きしていたのである。実際に日本に行ったことのない彼だが、島国の日本に金があるのを伝え聞いていたのである。

日本の黄金伝説はこうしてヨーロッパに広がっていった。そしてこれが西洋人がジパング(日本のみを指すのではなく、広義には東洋を指す)を目指す大きな原動力となっていったのである。

14マルコ・ポーロ

横町挨拶
元寇と言って皆さんは何を思い浮かべることでしょうか?上部が尖った蒙古碑(もうこのひ)は日本の各地に見られますが、往時の日本人が如何に恐れおののいたのかがよくわかります。外国の軍隊をほとんど知らなかった往時の我が国が受けたインパクトは想像を絶するものがあった気が致します。そんな中で、元寇は今までは「神風が吹いた」の一言で片付けられてきた感があります。

ところが実態は少し違っていたようです。確かに大筋でモンゴル軍は折からの台風による暴風雨で壊滅に至ったようですが、北条時宗が情報を事前に察知して、博多湾に防塁を築き、兵を集める(武士に捉われずに募った)など、モンゴル軍の上陸を阻んだのも大きな要因になった気が致します。

それと、往時の日本の運命を左右するこの出来事が往時のマルコ・ポーロ(フビライ・ハンに仕えていた)に伝わったことで、その後の大航海時代到来のきっかけとなっていったことに大変興味を惹かれます。既にユーラシア大陸の内陸部に毛細血管のような絹の道が内陸に築かれた時代、今度は広大な海原の向こうに、金や香辛料などの高価な物資を求めて冒険者が次々に繰り出します。自分はこの時代の世界史に最も触手を動かされますが、一か八かに懸ける男たちの荒い吐息に触れるのと全身の血が騒ぐ気さえ致します。(笑)

ところで歴史に「たられば」はありませんが、もし弘安4年(1281年)の7月30日に台風が来なかったら、一体どうなっていたのでしょう?ロマンは尽きない気が致します。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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15五百六十横町
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