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本日参考にさせて頂いた資料はNHKの歴史番組「その時歴史が動いた 我が言は万人の声~太平洋戦争前夜、日本を揺るがした国会演説~」である。


司馬遼太郎は、統帥権日本を別国に変えてしまった魔法の杖である。」と述べ、昭和初期の十数年間を日本史にとって極めて異常時代だったとしている。統帥権を平たく言えば、「軍部が幅を利かせて国民の主権を奪う」ことである。本日はこの統帥権と真っ向から戦った一人の政治家について語りたい。


政治家の名は斎藤隆夫(衆議院議員1870~1949、41歳で弁護士から政治家に転身。帝国議会衆議院において、立憲主義・議会政治・自由主義を擁護し、弁舌により軍部の政治介入やファシズムに抵抗した政治家)である。


1斉藤隆夫肖像

今振り返っても近代日本にとって、この時代ほど国民が軍に翻弄された時期はなかった。軍部の権力に立ち向かうことは非国民のレッテルを貼られることになる。それまで戦争反対を掲げて抵抗を続けていた多くの政治家や文筆家もこれを恐れて、方向性を変えざるを得なかった。プロレタリア作家の小林多喜二(1903~1933)に至っては特攻の拷問を受け、非業の死を遂げている。言論の自由がなくなったのは統帥権という怪物が暴走してしまったことにあるが、これに立ち向かった多くの人物は常に身の危険を感じる日常に晒されることとなった。


斎藤隆夫は普段は地味で誠実で、どちからというと目立たない人物であったという。そんな彼がひとたび議場に入って、壇上に立つとその様は一変した。舌鋒鋭い弁舌を武器に、彼は揺ぎない信念を持ち、言論への弾圧と真っ向から戦ったのである。


苦学してアメリカで政治理論を学んだ彼は普通選挙法の立案に関わった。斎藤は自身の論文である『比較国会論』の一文に、「立憲政治の究極の目的は国民の共同意識をもって、政治の原動力となることである。現代における立憲政治の理想こそ国会政治である。」と延べている。これは彼の政治家としての終生変わらぬ信念となった。1929年(昭和4年)に起きた世界恐慌は日本にも暗い影をもたらし、その後の不穏な世界情勢をもたらすきっかけとなった。経済の疲弊がファシズムに走る間接的な要因になっていったのである。


昭和6年の満州事変勃発後の日本は正に政情不安に晒された。五・一五事件(昭和7年)、二・二六事件(昭和11年)と未曾有のクーデターも相次いだ。二・二六事件の起きた昭和11年、広田内閣が発足したが、軍部からの政権への干渉は勢いを増し、人事権を含めて内閣は無力化していった。


2暗黒の昭和初期


広田が外務大臣に指名した吉田茂も軍部によって却下(吉田が自由主義的であるという理由から)されている。本来ならば、二・二六事件の責任を問うはずの内閣がその役目さえ果せない状態となったのである。昭和11年5月7日、第69帝国議会の場で斎藤は立ち上がった。


「軍人に政権を委ねれば立憲政治の根本が破滅に至る。国家動乱、武人専制の発端を開くものとなる。ゆえに軍人の政治運動は断じて禁止せねばならない。卑しくも立憲政治家たる者は、民衆の前に堂々と立ち国家の為に公明正大な争いを展開するべきである。軍部の一角と通じて自己の野望を遂げようとするに至っては、政治家としての恥であり、堕落であり、卑怯千万な振る舞いである。」


演説が終わると斎藤は拍手喝采を浴びた。翌日の新聞各紙は斎藤を勇気ある政治家と一斉に讃えた。斎藤65歳の時のことであった。その後彼は軍部から要注意人物としてマークされる羽目となった。護衛の意味もあったようだが、それだけではなく、警察や軍の人間が彼の自宅周辺をうろつき、動向調べに来ていたのである。そのうち自宅には暗殺を匂わせる脅迫状まで送られるようになった。


※熱弁する斎藤隆夫

3ただ独り、壇上へ


翌昭和12年に日中戦争が始まると政府は国家総動員法(戦時下において議会の承認なしに徴用や物資を統制する権限を政府が持つという法律)を立案した。ここで言う政府とは言うまでもなく軍のことである。この時斎藤は友人にこう語ったと言う。「この法案はあまりにも政党をなめている。私は自由主義最後の防衛の為に戦うつもりだ」但し、斎藤の法案反対の声は、滝に向かって石を投じるようなものでとても届かなかったのである。斎藤は過労から病に倒れた。


日中戦争が激化すると言論統制は一層強まり、国民を監視するものとなっていった。軍国主義の台頭であった。この頃から、病状が回復しつつある斎藤のもとに国民から手紙が届くようになる。内容の多くは「なぜ、あなたは政局に対して沈黙するのか?」というものであった。この声に動かされた斎藤は議会質問演説の草案作成に着手した。この時、妻の乙女は手作りのキャラメルを作って夫を支えた(斎藤は演説の時喉を枯らすことがあった)という。質問演説の内容は練りに練られた。練習の為に彼は鎌倉の海に言って何度も発声を繰り返したという。斎藤にとって妻による内助の功は大きかったようだ。


※左が斎藤の妻・乙女

4斎藤夫妻


そして遂にその時がやってくる。昭和15年(1940年)2月2日午後3時、民政党の斎藤は満を持して質問演説の場に臨んだ。時に斎藤69歳であった。政府に向けられた演説は日中戦争への明確な弁明(全国民が政府の日中戦争への誠実な説明を待っている)であった。演説が始まると議場は最初静まり返ったが、途中から拍手が入り混じるようになった。


このあたりまでは「斎藤よ、よくぞ言ったぞ!」という雰囲気であったが、その後に至って斎藤が政府の戦争責任への追求「政府は事あるごとに世界平和という大義名分を掲げているが、世界の過去の正義を掲げた戦争で、実際に平和が得られた試しは一度もない。」を唱えると、議場は怒号と野次が飛び交い騒然となった。


斎藤はひるむことなく続けた。「国家百年の大計を誤るようなことがあれば、今の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない…国民は日中戦争に対して多大な犠牲を強いられているが、政府が戦争を解決してくれるだろうという期待があっての追従であり、もしこの期待が裏切られることがあれば、国民は失意のどん底に蹴落とされるものであります。総理大臣はただ私の答弁に応じるのみでなく、国民の理解が得られるよう取り計らうべきであります。」


斎藤は政府のみならず、議会や政治家の堕落を激しく断罪したのである。一時間半にも及ぶ熱弁であった。しかしこの演説後、議長は権限により斎藤の演説の約三分の二を削除した。余りにも政府(軍)の意向に沿わぬものというのがその理由であった。軍部や対立政党の政友会などは斎藤が聖戦を冒涜したとして懲罰委員会に掛けることを求めた。事態を重く見た民政党は斎藤を離党させたが、それでも騒ぎは収まらず、除名処分の声が上がった。斎藤の進退は帝国議会の議会決議に委ねられた。こうして3月7日、賛成多数で斎藤の除名が決まった。


その後政党の弱体化は更に進んだ。政党は離散し、大政翼賛会の傘下に入ることになったのである。ここに来て議会政治は崩壊したのである。翌年の昭和16年(1941年)には太平洋戦争が始まった。ついに日本はアメリカを初めとする連合国との戦に身を投じていったのである。

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この話には「落ち」がある。昭和17年(1942年)4月、太平洋戦争下の選挙で大政翼賛会非推薦で彼は立候補した。彼の出身地である兵庫県出石町が彼を支援したのである。この時の選挙の立会い演説会には特攻警察が三人ほど来ていたという。だがこの時民衆は斎藤の味方であった。発言を阻止しようとする特攻に対して、民衆は「演説続行!」と叫び斎藤に味方したのである。


選挙の結果は圧巻だった。何と6人の候補者の中で斎藤はトップで当選し再び政権に帰り咲いたのである。太平洋戦争の最中に国民が斎藤を再び議会へと送り出す。これをどう捉えるべきか?国民の多くが軍国主義を望まないことの現われであり、真の政治を問う意味でこれは極めて感慨深いものである。

その3年後、日本は終戦を迎えた。1946年(昭和21年)の吉田茂内閣で斎藤は国務大臣として入閣した。時に斎藤隆夫75歳であった。更にその3年後、斎藤は議員現役のまま逝去した。生涯現役の政治家として、彼らしい最期(享年79歳)であった。

5国務大臣

横町挨拶

あなたは靡くほうですか?それとも抗うほうですか?と問われれば大多数の人は靡くほうを選択することでしょう?権力と真っ向から戦うのは並大抵のことでは出来ません。或る時は孤軍奮闘にもなり得る。これはけして机上の空論でなく、自分の過去の人生経験からも言えることでもございます。斎藤隆夫は反骨に満ちた政治家でしたが、けして猪突猛進に走らず、冷静に機を見て好機と見たら一気に畳み掛ける。そのような裁量を備えた政治家であったと察しております。何と言っても彼は私(わたくし)に走ることがなかった。


常に国民のことを考えて行動し、自分に対してやましいことがないから、このような毅然とした政治活動が出来たのでしょう。このような政治家を今の時代に見出すことは困難ですが、怖いのは我が国の国民性そのものが、こうした大きな時代の流れで全体主義化してしまったことです。即ち、個人が公の中で何を為すべきかを考える点に我が日本国民固有の特質を感じます。これは欧米のような個人主義思想とは明らかに異なるもので全体主義、ファシズムの遺産とも言えるものですが、これに振り回されるとアイデンティティーを失います。


昨今働き方改革が謳われ、少しはましになった感のある組織における個人のあり方ですが、まだまだ欧米との温度差は大きいと受け止めております。少し本題からずれましたが、私はこの番組に触れ、政治家としての強い信念とアイデンティティーをどこまでも貫く斎藤隆夫の生き方に強いシンパシーを抱きました。「和して同ぜず」はなかなかの難題ですが、彼の生き方に触れるとそのヒントが垣間見えて参ります。自分はけして政治家ではありませんが、彼のような気骨のある生き方を貫きたいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


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6五百六十横町
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コメント

今日は、

軍部の権力と強い圧力にもめげず、真っ向から
議会の場で言論の弾圧にも屈せず演説する勇気に
多くの者も賛同しながらも戦争を止める手立ては
なかったのも残念ですが、1人で其処まで振舞った
勇気に感動しました、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

盆休みしか出来ない記事を書こうと思い、「NHK歴史番組 その時歴史が動いた」の連荘となりました。
斎藤隆夫は命の危険も感じたことでしょう。それでも政治家として持つべき信念を曲げなかった。その姿勢は誠に天晴れと察しております。
残念ながらこのような政治家は現代では見かけなくなりましたね。おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

今晩は

どんな時代でも

流石って言える方いらっしゃいますね

横町さんの着眼点流石です

URL | まきの退屈日記 ID:-

こんばんは~♬

斎藤隆夫と言う人の存在は知らなかったです。
靡く、抗う、の2択だったら靡くかもしれません。
抗っても、着地点は見えないから・・
斎藤隆夫の在り方が、理想と思います。
なかなかできませんが・・

URL | 布遊 ID:-

斎藤隆夫、まったく知らない政治家でしたね…。こんなに骨のある大夫は、現在はいうに及ばす当時としても珍しかったのでないでしょうか…。
本日も、素晴らしい人物の紹介をありがとうございました…。

URL | boubou ID:-

まきさん、ありがとうございます。

斎藤隆夫は気骨のある政治家でした。身の危険を顧みない演説には敬服します。老いて益々盛んと申しますか、六十代半ば~七十代にかけての活躍は見事でした。おはからいにより、本日も厚誼を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

布遊さん、ありがとうございます。

自分はブログにクリエイティブ性を課していますが、その時歴史が動いたのYOU TUBE版に新たな活路を見出しています。NHKゆえ、動画はリンク無効にされますが静止画は対象外となります。これに自分の主観を加えることで記事になる。動画は最低二回は見ますので、凡そ頭に入ります。これによって浅くても広い知識を得られると認識しております。

斎藤隆夫の抗う生き方は自分にも覚えがございます。従って親近感を抱きました。お陰様で、本日もお志を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

一昨日の夜、この動画をYOU TUBEで発見しまして、彼の生き方に感動した次第です。貴兄の仰せの通り、大勢に靡くほうが断然楽な浮世の渡世ですが、この政治家は民の為に命を張った。自分はここにシンパシーを抱き、記事としての掲載を決めました。

歴史以外でもYOU TUBEを見ますが、ネタに困ることはなく記事の宝庫と捉えています。おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

横町利郎さん

この方は ブレない方だったのしょうね
内心、違うと思ったことを
云えない時代だったのでしょうが
それを信念をもって言動した方ですね

紹介ありがとうございます。(*^^)v

URL | まりっぺ ID:-

まりっぺさん、ありがとうございます。

「五常を失わず和して同ぜず」は私の座右の銘でもございます。従って斎藤隆夫氏のような生き様は理想です。過去の記事にコメントを頂くほどブロガー冥利に尽きることはございません。これには大変感謝しております。

本日も厚誼を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

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