fc2ブログ
本日は中世豪族粟野氏と沖野城の関わりについて、昨日撮影した現地写真を掲載の上述べたい。先ずはこの地図をご覧頂きたい。データは今昔マップからの引用である。左が明治40年に測図した沖野館である。沖野館という呼び名から、この地に要害があったことが歴然とする。右は現在の地図に遺構の位置を落としたものである。(遺構の位置は「仙台市史 資料編7 城館」を参考にして私が描いた)

1対比地図

曲がり角に注目、何の変哲もないL型の路地だが、ここに館があった時は水濠であった。

2水濠があったと思われるところ

南北に横切る一本の旧道があり、中館はその東側にあったようだ。水色のL型は水濠、その交点が写真を撮影した曲がり角である。

3Google3D立体画像北部

南北に横切る道は緩やかに曲がりくねっており、何となく旧道であることがわかる。この界隈には地主と思しき旧家も何軒か点在している。左側が中館のあったと言われる箇所である。


4仲館の界隈

沖野城は霞目飛行場造成時に敷地の一部を奪われカットされたようだ。(落成は昭和8年)土地の古老の話では、飛行場の敷地内で、造成時に館に関係すると見られる埋設物が多数見つかったとのことであった。この時、祠などは地域に帰還したらしい。郷土史家の紫桃正隆著「仙台領内古城・館」によると、北門の近くのこの辺には幅10メートルもの水濠や高さ5メートルの土塁があったという。

5北門界隈原図

私はブログで大年寺(茂ヶ崎城跡)探訪の際、粟野氏について触れたことがあった。粟野氏はその昔、越中(富山)をルーツとし、室町時代は大崎氏に従い、その後新興勢力である伊達氏に仕えた。粟野氏の本城は茂ヶ崎の後、北目城(仙台バイパス千代大橋南側)とされ、沖野城は長国遠江守、重国大膳亮(宗国とも)の嫡流とは別に弟筋の庶流にあてがわれ、支城として機能していた時期もあったようだ。ただし重国大膳亮の時代兄弟の不仲もあったようで、兄弟喧嘩に政宗の沙汰がくだり、沖野に城を構えた弟の国治左衛門尉助太郎が逃亡を余儀なくされ、焼き払いの憂き目に遭うなどの波乱もあったようだ。


その後天正19年(1591年)豊臣秀吉の奥州仕置で、伊達政宗が岩出山に移封されたのに伴い、粟野氏は長年住み慣れたこの地を後にした。それはさておき、室町~戦国期にかけ、粟野氏の六郷支配の拠点となったのが沖野城である。


※北側市道から南方向を望む。焼き払いのあった後は荒地となったのは想像に難くない。その後の沖野は農村から住宅地へと変貌を遂げ、徐々に賑わいを取り戻していったのだろう。


6北から望む原図

横町利郎挨拶
この辺は遺跡調査が行われた20世紀末から宅地化が一層進みましたが、資料を見る限り土塁や水濠の規模の大きさには驚くべきものがございます。昨日は途中で降り出した小雨も止んで最後は夏空が広がり始めました。写真を撮影する目的で行ったのでこれは大変ラッキーでした。

沖野館はその昔沖館とも言われ、「沖野」は河川の運んだ沖積物が積もり重なった広大な海原のような原野であったのが命名の由来とされます。昨日現地を訪れた私は、先ず周辺を歩いてみました。現地の雰囲気を肌で感じるにはこれが一番です。そして南北400メートル、東西350メートルにも及ぶ平城は破格の広さと実感しました。

粟野氏は政宗の曽祖父・伊達稙宗(相馬懇意)についた経緯もあり、伊達氏とは敵対と恭順を繰り返した節があります。伊達氏の力を見定めようとしたのでしょうが、このような大規模な館を構えた頃の粟野氏には「伊達何するものぞ!伊達に屈してなるものか!」くらいの意気込みもあったのでないでしょうか?兄弟喧嘩が発端となった焼き払いの沙汰は自滅とも取れますが、粟野氏一族は「豪の者」としての血が脈々と流れていた気が致します。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


7六百六十横町
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)