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前書き
本日は休日を利用して先日沖野城跡で撮りそこなった土塁跡(二箇所)を撮影してきた。また資料により、沖野城に城を構えた粟野氏についても相当のことがわかってきたので、私なりの所見を述べたい。

先ずは下図をご覧願いたい。仙台の南東部に五つの城が記されているが、ここで気をつけねばならないのは五つの城が同時に存在した時代はないということである。これは何を意味するか?と言うと室町~戦国期にかけて繁栄した粟野氏は伊達氏によって没落したということである。例え傘下に入っても服従したくない。これは或る程度、力量の拮抗した企業同士の合併などで囁かれる類の話である。

伊達氏は政宗の代になって急激に力をつけてきたが、それまでの伊達氏は近隣大名との覇権争いに日々鎬を削っていた。従って中世豪族の粟野氏も伊達など大したことないくらいに思っていたのだろう。

1各城の位置

粟野氏のルーツ沖野城の支配

中世豪族・粟野氏が沖野に館を構えたのは定かでないが室町時代と思われる。粟野氏のルーツはその昔、越中(富山)をルーツとし、室町時代は大崎氏に従い、その後新興勢力である伊達氏に仕えた。粟野氏の本城は茂ヶ崎の後、北目城(仙台バイパス千代大橋南側)とされ、沖野城は粟野長国遠江守、粟野重国大膳亮(宗国とも)の嫡流とは別に弟筋の庶流にあてがわれ、支城として機能していた時期もあったようだ。ともあれ室町時代から戦国時代にかけ、粟野氏の六郷支配の拠点となったのが沖野城である。


戦国期末期の近く、重国大膳亮の時代広瀬川の堤防建設を巡って兄弟喧嘩が起き、政宗の沙汰がくだり沖野に城を構えた弟の国治左衛門尉助太郎が領地没収の上、焼き払いの憂き目に遭ったという。その後天正19年(1591年)豊臣秀吉の奥州仕置で、伊達政宗が岩出山に移封されたのに伴い、粟野氏は長年住み慣れたこの地を後にした。


※中館があったと言われる周辺。霞目バス停付近の北門付近から南北に走る旧道が現存するが、地主と思しき旧家も何軒か点在している。


2中館界隈原図

館の東に位置する曹洞宗清涼寺を遠望してみた。付近には農地も点在し往時の縁を微かに偲ぶことが出来る。


3旧道より清涼寺を望む

さて、本日撮影してきた土塁跡の位置をGoogle3D立体画像で確認して頂きたい。土塁Aは霞目飛行場内部、土塁Bは民家の庭先にあった。前回も述べたが沖野城の規模は非常に広く東西400メートル、南北350メートルにも及んでいる。土塁A、Bとも北門の近くである。

4土塁追加Google3D立体画像

これが土塁Aの部分である。仙台市営バス沖野停留所から北側に20メートルほどの場所である。様々な資料を基にして調べたので信憑性は高いと考えている。

5沖野バス停傍の土塁跡

これが土塁B(ビニールハウスの左)の部分である。今は民家の庭先となっていて立ち入れないので、このアングルが精一杯である。

6民家脇の土塁の跡原図

最後まで伊達に抗い続けた豪の者

粟野氏は天文年間まで伊達氏の直接的支配下になく、天文の乱で政宗の曽祖父・伊達稙宗(相馬懇意)についた経緯もあり、伊達氏とは敵対と恭順を繰り返した節がある。伊達氏の力を見定めようとしたのだろうが、このような大規模な館を構えた頃の粟野氏には「伊達何するものぞ!そう簡単に伊達に屈してなるものか!」くらいの意気込みもあったのだろう。


戦国末期に政宗の怒りを買って、沖野城を焼き払いされた後の粟野氏は仙台開府後の伊達とも抗い続け、重国の跡を継いだ重次は伊達の分家筋となる伊達秀宗の赴任先である四国の宇和島行きのお供の話も断り、いよいよ知行を没収されることとなった。大きな流れに流されまいと最後まで抗った粟野氏だが、意地を通せば窮屈になるのは古今東西において同じようである。


※四国の宇和島藩は仙台・伊達藩の分家である。徳川家康によって四国の伊予の宇和島は伊達政宗の庶長子の秀宗に与えられたが、この時も粟野氏は伊達に抗い、秀宗への同行を拒否、その後没落に至った。
7宇和島藩地図

横町挨拶
定年前の数年間、私は権力に抗いました。靡かぬということは冷や飯を食わされるのを覚悟しなければなりません。往時の粟野氏も「これでもか!これでもか!」というくらいに冷や飯を食わされ続けたと察しております。伊達藩の気風としては他から寝返った者を優遇し、古くから抱えていた家臣と境遇を差別しないというものがございました。これによって一気にのし上がった武将も居ました。代表格としては大内備前定綱(旧小浜城主)、佐藤宮内為信(旧相馬家臣)らが挙げられます。

これは私の推察の域を出ませんが、粟野家には「侍たる者豪であるべし」というような家訓があったのではないでしょうか?権力に抗った粟野氏は結局没落の道を辿りました。私は歴史を哲学の兄弟と捉えていますが、改めて権力に抗うことの難しさを再認識した粟野氏の処世でした。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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8六百六十横町

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