fc2ブログ
赤穂浪士、新撰組、真田雪村…侍は本懐を遂げたときに一層輝きを増す。それは己の命と引き換えに大義を遂行するからである。我が国の国民に根ざした倫理観の中に「自他の名誉を重んずるのを仁義と捉える思考」を見出す時、この思想はけして失せることなく、仇討ちという制度がなくなった現代でも、燦然と人々の心の中に輝き続けるものと私は考えている。本日はそんな気持ちを拠り起こしながら、161年前に起きた一つの「仇討ち」について取り上げてみたい。


去る5月12日(土)、石巻市の袋谷地地区を訪ねた際、曹洞宗長林寺の石碑に「江戸時代の藩米積み下ろしの監視や市内の警備、諸興行取締に当たった仙台藩御足軽三十五名によって開拓された所。「袋」は水辺の湾曲部の意、「谷地」は草立ちの湿地帯の意味(語源はアイヌ語でヤチ)安政四年(1857)十月祝田における久米幸太郎の敵討ちの際、幸太郎の宿舎を警備した梅沢寛左衛門、梅沢万之助、大坂徳蔵、大坂作右衛門、栗原彦衛門、後藤長十郎、桜内善吉、千田八十郎、広田文右衛門などの姓名が新発田藩文書久米家復言一仟に云々」という文言が刻まれていた。これによってこの地に住む足軽数名が新発田藩士である久米幸太郎敵討ちの際、宿舎(位置は不明)の警護に当たったらしいということが判明した。この仇討ちの実話を基に、菊池寛の「仇討ち三態」が作られたと言われる。同時に、同氏の「恩讐の彼方に」のヒントにもなったのでは?と私は考えている。


さて、「きてみてけらいん! いしのまき」の引用でもう一度この仇討ちを振り返ってみたい。越後新発田藩中小姓久米弥五兵衛が文化14年(1817)、同藩の藩士宅で馬廻役滝沢休右衛門に殺害(滝沢休右衛門の藩金の不正な着服を久米弥五兵衛に知られたことが発端)され、その長男・久米幸太郎(1811~1891)が成人してから約30年全国を探し回り、僧形に扮し「黙昭」と名乗っていた滝沢を安政4年旧10月9日(1857年11月25日)、祝田浜(五十鈴神社前の仇討ちの碑のある付近)で討ち果たした。

※赤:仇討ちが行われた石巻市祝田地区、黄色:滝沢休右衛門が仏門に入り、数十年後に仇を討たれ葬られた曹洞宗洞福寺(谷川浜)
休右衛門は何故このような半島に来なければならなかったのかを考える時、追手から何とか逃げ切りたいという彼の思惑が見え隠れしてくる気がする。



事件発生から41年、史上2番目に長い仇討ちとして知られ、菊池寛(1888~1948)・長谷川伸(1884~1963)等により小説化され、平成10年(1998)3月にはNHK「堂々日本史」でも紹介されている。石巻市渡波梨木畑の旧金花山道脇には「胴空地蔵」と呼ばれる安政6年(1859)4月建立の滝沢休右衛門の供養碑が建っている。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
昨日、この話題を取り上げた本を図書館から借りてきた。KTC中央出版「堂々日本史」第18巻の中の「江戸の掟、仇討ちの真実」である。往時のNHK教養番組部の石井裕一郎氏によると、この番組を作る際のパターンは「史実を調べていくうちにテーマや人物像が浮かび上がってくるパターン」だったという。この史実がそれほど知名度が高い事件(往時は侍に限って認められていた仇討ちのことを敢えてそう呼ばせて頂くことにする)でなかったのは私も同感するところである。東京大学史料編纂所の前身で教員をしていた平出鏗次郎氏の「敵討」によると江戸時代に成功した仇討ちは104例であるという。但し成功する例はほんの一握りであり、様々な理由(返り討ち、敵の死去、どうしても敵を探し出すことが出来なかった、仇を討とうとする者の諸事情等)で、その殆どは成し遂げられなかったとも言われる。(仇討ちの成功率は凡そ1パーセント程度と言われる)

※父の敵を討った久米幸太郎肖像画(KTC中央出版「堂々日本史」第18巻の中の「江戸の掟、仇討ちの真実」より引用)



石井裕一郎氏は石巻市の郷土史家(石巻市図書館館長も歴任)である橋本晶氏(1916~1991)の「祝田浜敵討考」にも触れている。大正6年に事件を目撃した木村たまさん(当時82歳)から聞いた話である。木村さんは新発田藩の報告書とはまったく違った仇討ちの実態をこう語っている。「向こうから八十近い和尚が袈裟かけて墨染めの衣を着て、トポリトポリ来ました。その後から大たぶさを結った立派な士(久米幸太郎と思われる)が来ました。…その和尚が頭をふって、それは間違いだ、俺は庄内だ、庄内だ、越後ではないと、なかなか聞きません。そうすると五人きたうちの二人が来て、和尚の左右の手をばとって動かさない。そしてまた別の人が来て、和尚の袈裟と衣とそぞめの杖を取ってしまった。…そのうちに立派な士が後から和尚の首を斬りました」


恐らく木村たまさんの話は事実に近いのだろう。どうもこの話を聞く限り、この仇討ちは久米幸太郎個人の仇討ちを越え、新発田藩の名誉を果たす為に為されたものだったようだ。
私はこの話を聞き、時代劇で見られるような仇討ちとは綺麗ごとで、実際は個人の力での仇討ちは非常に困難だったのでは?という印象さえ抱いた。


胴殻塚(以下石巻wikiより引用)
石巻市渡波梨木畑地区の祝田二区集会所の東脇に、地蔵を刻んだ供養碑が建ってい



地元では、久米幸太郎に討ち取られた滝沢休右衛門(黙昭)の胴体を埋めた「胴がら塚」であると言い伝えられてい。久米幸太郎の仇討ちの様子については、聞き書きが残っており、2~3人の男が八十を越えた老僧の両腕を取り押さえ、袈裟と法衣を脱がせ、背後から切り(中略)むごい仇討ちに同情した村人達が滝沢休右衛門の供養に建てたものと言われてい。遺骸が2年間埋められたという祝田梨木畑に、安政年(1859年)夏4月佛縁日に地蔵菩薩を刻んだ供養碑が建てられた。恩讐を越えて、瀧澤を哀れと思う美しい人情が伝わってくる。

※黄色:仇討ちが行われたあたり(石碑あり)、赤:胴殻塚のある場所



尚、谷川浜洞福寺(石巻市 曹洞宗 光谷山:住所石巻市谷川浜中井道7)歴代住職の墓所には瀧澤休右衛門の墓が建てられている。

瀧澤休右衛門の墓がある谷川浜洞福寺



横町感想
個人の名誉を果たすべき仇討ちがいつの間にか、藩の為のものに置き換えられる。ここにこの事件の特異性を感じます。背景として江戸時代も幕末となり、武家社会とは名ばかりで、経済を握る豪商たちの台頭で武士の権力は揺るぎつつあったと私は考えます。そんな中でこの事件は起き、新発田藩は何とか面目を保ちます。


しかし新発田藩の記録に書かれた「竹やぶから飛び出した幸太郎は休右衛門の名を呼ぶ。『三度呼びかけ候所、ワシの事かと答え候』あくまで人違いを装っていた默照も、顔見知りの藩士に詰め寄られ、ついに休右衛門であることを認めた。紛れもない父の敵。幸太郎は刀を抜き勝負を迫る。正面から一太刀、更にとどめ。四十年ごしの仇討ちはようやく終わった。」は仇討ちの一部始終を見た目撃者・木村たまさんの証言と全く異なります。(多人数で休右衛門を押さえつけ、後ろから首を刎ねた)


多くの歴史は勝者や生き残った者が自分の都合良いように改竄していると言われますが、この仇討ちもどうやら後で歪曲されたものだったことがわかります。最後に仇を討った久米幸太郎の晩年のことに触れたいと思います。新発田に戻り、藩主から労いの言葉をかけられ、二百五十石を与えられ、破格の寺社町奉行に抜擢され、家を無事に再興できた彼にとって、どうもこの役は重かったようです。


寺社町奉行となった彼は城下で風紀を取り締まったことが庶民の反感を買い、1866年(慶応2年)に奉行の座を解かれます。禅の教えに「官には針を入れず、私に車馬を通ず」(表向きは針も通さないほどの小さな穴と思っていたら、実は車でも馬でも通ってしまうほどの大きな穴であった。…転じて、表面上は針をも通さないほど厳格としながらも、裏では車や馬も通すほどの寛容さがないと、人の心は自ずと離れてゆくものである)という言葉がございますが、彼にはそのような度量がなかったようです。


藩の後押しで仇を討ち果たした彼は実業家としてもパッとしたところがございませんでした。その後事業を起こすなどして、点々と職を変えましたがいずれも失敗に終わったようです。八十歳の長寿を全うした彼の胸内を推し量る術はありませんが、仇を討つのに必死だった彼は、政治(まつりごと)とはどんなものだったのかを学ぶ余裕などなかったのかも知れません。新発田藩の制裁、或いは名誉遂行に利用された感のある幸太郎に対しては同情と申しますか、一生を棒に振ったような寂しい晩年さえ重ねます。

ところで明治維新を迎え、1873年(明治6年)に仇討ちは禁止されました。禁止された後でも仇討ちは行われ、実行者には終身刑が言い渡されましたが、世間は概ね仇討ちをした者に同情的だったようです。武士にとって本懐を遂げるのを理解する国民性は近代になっても人々の心の中に生き続けているものを改めて感じました。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)