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成田為三:浜辺の歌(林古渓)Hamabe-no Uta
成田為三作曲、林古渓作詞「浜辺の歌」歌詞
一番、 あした浜辺をさまよえば 昔のことぞ しのばるる 風の音よ 雲のさまよ 寄する波も 貝の色も
二番、 ゆうべ浜辺をもとおれば 昔の人ぞ しのばるる 寄する波よ 返す波よ 月の色も 星のかげも
三番、 疾風(はやち)たちまち波を吹き 赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし 病みし我は すでに癒えて浜辺の真砂
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秋田県森吉町出身の成田為三は「浜辺の歌」を作曲する際、イメージとして故郷を流れる森吉川を表したという。これは信じ難いことであり、殆どのかたはこの曲が「海への慕情を重ねた叙情歌と」取られるかも知れないが、れっきとした事実である。

私はこの曲を聴く度に故郷・石巻の生家で過ごした幼少時代を想い抱くのである。本日はその理由について語りたい。このモノクロ写真はインターネット上で存在する数少ない住吉望楼住吉タワー)の画像である。この住吉望楼が存在したのは1960年~1986年の26年のことである。

自分の幼少期に建てられたこの塔は今でも自分の心の中にあり、色褪せない存在感を放っている。特に歌詞の二番の「昔の人ぞ しのばるる」を聞く時、涙ぐまずを得ないのである。「昔の人」とはもちろん、敬愛する祖父母であり、父、叔父のことである。

モノクロ写真は80年ごろ、ルポライターの亀山幸一さん=石巻市駅前北通り2丁目=が千石町(旧横町)付近で撮った望楼のある風景である。望楼は高さ18メートル(土台の愛宕山を含めると29メートル)あり、頂上部にサイレン、中ほどにタワーを1周する監視用の廊下が造られた。市街地には高層ビルがほとんどなく、郊外まで見渡すことができたという。

石巻消防署中央分署の署員が、夜の11時から翌朝5時まで交代で見張りに立ち、電話が普及していなかった時代の迅速な通報を担ったとのことだが、市街地ゆえ、辺境の地に建つ灯台のような悲壮感はなかったと察している。それでも、亀山さんは完成間もない60年5月のチリ地震津波のとき聞いた「ウオーン」という音を「心臓も凍り付くばかりの残響を引いて鳴り続けた」と回想している。恥ずかしながら自分にはこのチリ地震津波の時の記憶が殆どないのである。

恐らく生家には到達するほどの津波でなかったため、記憶に残らなかったと察しているが、2011年の際の大津波(生家跡地を1メートルほどの津波が襲った)を考えると、ぞっとするものがある。

※1980年頃撮影された石巻市住吉タワー(望楼)(NEWSかほく 石巻メディア 猫の目より引用)
毎日、朝7時と夜8時には浜辺の歌(オルゴール風)が流された。

だいぶ前にタワーは撤去され、住吉町の愛宕山の外観はこのようなロケーションとなっている。

かつて愛宕山にあった住吉望楼が撤去された跡。

これは北上川側(東側)から見た住吉タワーである。然らば、小学校三年当時、毎日このタワーを見ながら住吉小学校に通ったことになる。
(石巻日々こどもしんぶんより引用)

これは西側からのビューであるが色をつけて加工(コンピューター加工)を施しているようだ。1986年に解体された住吉タワーが目の前に蘇ってくるシチュエーションである。

このビジネスホテル(FUTABA IN)は昨年の2017年4月30日に泊まったが、この画像のすぐ左にはかつて住吉タワーがあった。

横町挨拶
我が祖父は1966年に亡くなっているので晩年の6年間のみ、このタワーと曲(オルゴール風だったと記憶)に触れたものと察しております。実はこの’6年間’という数字は自分が石巻で「浜辺の歌」に触れた期間とほぼ重なります。敬愛する祖父がこの曲をどんな気持ちで聴いたのは今更推し量る術はございませんが、そんな祖父も自分の先祖を偲びつつ、毎日この曲を聴いたのかも知れません。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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