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先月の9月26日、私は仙台市太白区郡山の北目地区と旧笊川地区を訪ねた。旧笊川は去る10月12日から13日にかけての台風襲来により氾濫に晒されたとニュースで知った。笊川の命名の由来については先日も触れたが、普段は堀のような水量でありながら、ひとたび大雨に見舞われる都度氾濫を繰り返す様子から来ていると言われる。

笊川(座留川とも)の戦いが行われた戦国期に関しては、恐らく治水もままならず、一帯は荒れるがままに任せ、湿地帯を流れる小川の様相を呈していたものと思われる。馬は泥濘地に向いていない(下手をすると泥にはまって動けなくなる)ので、恐らく往時の騎馬隊は道を選んで戦場に向ったに違いない。

さて、このロケーションをご覧頂きたい。ホテル ルートインの右側辺りがかつて粟野氏(中世豪族~伊達氏家臣)という一族が城を構えた北目城跡である。大変残念ながら、今は国道4号線仙台バイパスと長町インターへの取り付け道路の交差点付近に掛かり、往時の面影はほとんど残っていない。

1本丸の辺り

Google航空写真に北目城の位置と侍屋敷の跡を落としてみた。旧笊川とは約1キロほどしか離れていない。

2スペア北目~笊川Google航空写真

ブルーシートを被っているところが平成4年~5年にかけて発掘調査が行われた場所である。天正19年(1591年)に北目城は伊達の手に渡ったが、この発掘調査によってその時に相当の改変(大規模な堀切り、土塁など、城としての防御力を高める為の普請)を受けたことが判明している。(左右に貫く広い通りは国道4号仙台バイパスで、左方向が東京方面、右方向が盛岡方面である)

3平成四、五年航空写真

地図を見て頂きたい。調査が行われた場所は色のついたところである。住居表示改訂以前の地名には館ノ内、出丸、矢口というものがあり、矢来に関しては今でも残っているという。規模に関しては東西500メートル、南北500メートルとかなり広いが、一説によると広瀬川の浸食で城内の敷地の一角(北東角)が失われた可能性もあると言う。粟野氏はこの城の他に茂ヶ崎城や沖野城も支配していた時期が続いたが、往時の粟野氏の勢力の大きさを物語る論拠となるものと察している。

4調査配置図

この立札は発掘調査が行われた場所から北北東に約100メートルほど行ったところに設置されているものである。

5北目城跡立札

笊川の戦いが行われた背景に伊達氏の内紛(骨肉の争い)である「天文の乱」があった。戦いに及んだ当事者は14代の稙宗(伊達政宗の曽祖父)と15代の晴宗(伊達政宗の祖父)である。この戦いはけして一回のみの戦いを指すのでなく、弘治3年(1557年)~天正3年(1575年)の18年近くにも渡って行われた伊達と相馬の一連の戦いの布石と言っていいようだ。この戦いには亘理元宗(伊達政宗の大叔父)も絡んでいる。

6奥州伊達家家系図 (2)

天文の乱に関わった主な武将をご覧頂きたい。伊達と相馬は縁戚関係にあったが、特に相馬と懇意にしたのが稙宗であった。従って、晴宗側イコール伊達氏、稙宗側イコール相馬氏と解釈して差し支えない。(但し、有力大名である会津の蘆名氏は後に晴宗側に寝返り、大勢に大きな影響を与える)

7天文の乱構成図

この辺りが戦いが行われたと思われる地点である。今となっては数日前の台風19号による爪あとが刻まれているのかも知れない。

8笊川

横町挨拶
笊川の戦い」に関しては資料が極端に少ないので、少しずつでも前に進んで行ければそれでいいと考えています。今回は両軍に加担した武将の整理を行い、少しずつ全容が見えてきた気が致します。後は都度小まめに記事を更新し、作品に仕立てたいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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9五百七十横町
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