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笊川の戦いに対しての研究も佳境に入ってきた。本日は本日調べ上げた成果を基に、笊川の戦いに関する仮説を立ててみた。尚、今回参考にさせて頂いた文献(飽くまでも本日までのもの、敬称略)を羅列する。順序は不同である。史実については、信憑性が定かでないと思われたものを割愛し、信用に値すると思われるものを選りすぐって採用した。

①紫桃正隆著「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」

②八本松連合町内会、郡山地区連合町内会他「八本松・郡山まち物語」

③菅野正道著「名取郡北目城主粟野氏の盛衰」

④仙台市博物館市史編さん室監修「仙台市史 資料編7 城館」

⑤齋藤潤著「伊達氏、仙台への道」

⑥Wikipedia「相馬盛胤

大林昭雄著「仙台藩陰に生きた勇者たち 伊達忍帖控」

先ずはこの図をご覧頂きたい。粟野氏研究の権威・菅野正道氏が作成した戦国期(16世紀半ば頃と推定)の勢力図である。戦いの行われた笊川はわかりやすいように水色で塗ってみた。粟野氏は北に国分氏(後に伊達氏に服属)と伊達氏に挟まれるような領地だが東西に細長いのが特徴である。

豪族の勢力図

菅野氏によるとこの時代の豪族の多くは両属的(誰が抜け出すかわからないので、あやふやな態度を取らざるを得ない)だったと言うが粟野氏もその例外に漏れず、どちらとも尽かない態度を取っていた。

2戦国時代の仙台平野豪族の説明 - コピー

先日も紹介したみちのくトリッパー様の勢力図を再びご覧頂きたい。葛西氏、大崎氏、伊達氏、相馬氏、蘆名氏は大名、他は有力豪族たちである。ここで「亘理」というところに着目。この亘理には伊達晴宗の弟である亘理元宗伊達稙宗の十二男で天文の乱後に家督を相続)が居たが、この亘理元宗こそが鍵を握る人物であったようだ。

3みちのくトリッパー様データ

実は亘理氏は天文の乱の際には伊達稙宗側(負けたほう)についていたのである。伊達稙宗は相馬と懇意にしていた為、何かあるにつけ相馬を頼りにしていたと考えるのが自然と思われる。

7天文の乱構成図

仙台平野中部~南部に於ける区域でもとりわけ広瀬川~名取川の区域(名取郡)の豪族支配について、中世から戦国期にかけてどんな史実が積み上げられてきたのかを箇条で表したい。尚、笊川の戦いに関係のある部分を太字で表してみた。


・1189年(文治5年)藤原氏が奥州合戦で源頼朝を向い打つ為の防御拠点が作られる。この後藤原氏は滅亡に至る。その後頼朝は有力御家人の和田氏を任命し名取郡の統治を任せる。

・和田氏が滅亡し、その後は三浦氏を地頭にする。

・鎌倉中期に三浦氏は北条氏に滅ぼされ、名取郡は北条氏の支配となる。

・北条氏滅亡後の南北朝~室町時代中期までの領主は不明である。

・室町中期からは粟野氏が勢力を拡大する。

・寛正年間(1460~1466)、名取粟野氏8代の粟野大膳亮忠重は茂ヶ崎から北目城に移ったが9代の国定の時、北目城を嫡男の高国に譲り、国定は沖野城に移った。粟野氏家譜によると1482年(文明14年)に伊達の麾下に属したという。

・10代高国は再び北目城に戻ったが、伊達稙宗(仙台藩祖・伊達政宗の曽祖父)に従い、1528年(享禄元年)小手森城の戦いで討ち死にする。高国の子刑部国勝も同時に討ち死にした。

・1542年(天文11年)~1548年(天文17年)伊達稙宗と子の伊達晴宗(仙台藩祖・伊達政宗の祖父)の間に「天文の乱」が起こる。この乱で粟野氏は伊達稙宗側についたが、戦いは晴宗の勝利となって終結に至る。


1548年(天文17年)戦いに勝利した晴宗は本城を桑折西山城から米沢城に移す。

・1548年(天文17年)相馬義胤(後の相馬16代当主)生まれる。

・1555年(天文24/弘治元年頃、伊達晴宗が幕府から奥州探題に補任される。(奥州探題の具体的な権限については詳しくわかっていない)

・11代長国は伊達に仕えてはいたが、独立的な立場を継承し一時は名取33郡を領した。天文の乱終結後に、晴宗と抗った粟野氏は仕置の対象になった可能性が高いが、長国はそのような経緯もあって、失意のうちに1556年頃に死去したものと思われる。

・粟野長国死去に伴い跡継ぎの重国(宗国とも)が幼少の為、伊達側は仕置を始める。この頃から独立的な立場を維持していた粟野氏は勢いを弱め、徐々に伊達の家臣に組み込まれていった。

・1557年(弘治3年)伊達晴宗(伊達氏15代当主)と相馬盛胤(相馬氏15代当主)が名取郡の笊川(座流川、或いは沙留川とも)で戦う。(勝敗は不明)

・1563年(永禄6年:一説に永禄7年とも)伊達一門の亘理元宗伊達晴宗の弟)が名取郡の北目某と不仲(不仲となった原因は元宗の次男を北目氏の養子にするという約束を北目氏が破ったこととされる)となり、相馬に加勢を頼んだ為、相馬が援軍を送って勝利を収めた。相馬側の資料によると、この時相馬義胤(17歳)が笊川の戦いで初陣を飾った旨が記録されている。

・1564年(永禄7年)伊達稙宗が丸森城に幽閉されたまま死去。

・1564年(永禄7年)~1570年(元亀元年)に相馬盛胤の伊具郡侵攻が活発化し、金山城、小斎城、丸森城を落城させる。


・伊達政宗(後の17代当主)が1567年(永禄10年)に米沢で生まれる。

・1575年(天正3年)伊達輝宗が名取郡笊川(座流川、或いは沙留川とも)で相馬勢を破る。

・1576年(天正4年)同年、相馬義胤が亘理郡に攻め入り、亘理元宗と対陣するも義胤が兵を引く。その直後、伊具郡で伊達輝宗と相馬父子(盛胤と義胤)が合戦に及び、相馬側の勝利となる。

・1581年(天正9年)伊達政宗が伊具郡で初陣を張る。この時政宗は弱冠15歳。政宗の成長とともに、その後伊具から新地にかけての領地奪還が活発化し、伊達氏の攻勢は1590年(天正18年)の小田原攻めのころまで続いた。

・長国の子12代粟野大膳重国(宗国とも)は茂ヶ崎に在ったが、その後北目城に移り伊達政宗に攻略されて磐井郡大原(現一関市)に追われる。重国は失意のうちに1624年(元和9年)に死去する。


菅野正道氏の粟野氏略系図を基に私なりに加筆に及びCADソフトで書いてみた。年代から言って、粟野氏の中で笊川の戦いに関わった可能性があるのは赤のアンダーラインを引いた4人である。右端の宗国(長国とも)が幼少時に家督を継いだ為、伊達側が一気に家臣に取り込もうとしたらしい。天文の乱で仕置を受けたとされる粟野氏が伊達政宗と対立して没落に至る。これは自然な流れとも言えるが、粟野氏は長国、宗国(重国とも)の二代で没落に至ったと見ていいと解釈している。

5粟野氏略系図 - コピー

※先日の台風19号の豪雨で氾濫した旧笊川(2019年9月26日に撮影)

4北目城の南側

インターネットで面白い絵を見つけた。粟野氏の居城であった北目城の想像図(郡山小ぐんぐんブログ)である。全くの想像図とは言いながらも平成4~5年に行われた発掘調査で見つかった堀跡などが表現されているところが興味深い。幻の城(実像の殆どがわかっていない)と言われる北目城のイメージの一助となれば幸いである。

6郡山小ぐんぐんブログ北目城想像図

横町挨拶
現地取材も行い、謎解きが一つ一つ成され、いよいよ笊川の戦いのイメージが具現化して参りました。冒頭でも述べた通り、鍵を握るのは伊達政宗の大叔父に当たる亘理元宗です。元宗の兄の晴宗が伊達家の当主であったので、少なくても1563年(永禄6年)の第二回の笊川の戦いのあたりまでは、弟が本家に向って弓を引いていた(その後は上手く立ち回り、伊達宗家側に取り入る)と解釈していいと考えています。

大きな謎ですが、実はここに登場する北目氏(大林昭雄著「仙台藩陰に生きた勇者たち 伊達忍帖控」に登場する人物)が一体何者なのかはわかっておりません。それでも亘理元宗と対立するに至ったということは恐らく晴宗側(伊達宗家)の人物だったのでしょう。

戦いが行われた頻度について、大局的な視点で捉えれば笊川の戦いは最低でも三回は行われたと解釈できますが、小競り合いを含めればもっと増えるのかも知れません。但しこのあたりに関しては調べる術すらないので想像を巡らせて断片的な史実を繋ぎ合わせて行きたいと考えています。

亘理元宗次男の養子縁組が叶わなかったという私怨が戦いを誘発する動機になったとも取れますが、相馬側の復讐心(懇意にしていた稙宗が天文の乱で敗戦に至ったこと)を元宗が煽ったとも解釈でき、興味は尽きないところです。ともあれ、戦いに至った動機や参加した人物、時期などが徐々に明らかになり、謎が相当解けてきた気が致します。

今回はこれくらいにしますが、次の段階ではかなり細かい部分までペンが進みそうな予感がしています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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7六百横町
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コメント

こんばんは、

膨大な資料を研究され、度重なる現地取材も行われ
ましたね、
笊川の戦いをイメージがされていよいよ本格的に
執筆に向けての意気込みを感じさせられました、

きょうは、午後から飲み仲間に誘われて
先ほどまでカラオケで盛り上がって飲んでいました、
大変失礼な状態ですので後日、
ゆっくりと拝読させて頂きます、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

2013年の歴史講演会への出席、相馬郷土研究会への参加、様々な文献の調査と、ここまで来るのに相応の手間と時間を要しましたが、励みとなったのは「好きこそものの上手なれ」という先人の言葉です。司馬遼太郎は自らの作品の中で「人間にとって郷里と関わった人生を送ることに勝る幸いはない」ということを述べていますが、自分も同感の極みであり、郷土をこよなく愛せるからこそ出来る業と捉えています。

手間を取らせますが、インターネット検索で「笊川の戦い」と検索願いたいと存じます。恐らく検索結果は私のFC2ブログのみがヒットするはずです。人が踏み込んでいない領域に、自らが魁となって足を踏み入れる。自分がやらねば誰がやるのか?今回の記事はそのような強い思い込みで書かせて頂きました。

貴兄のおはからいにより、今回も格別なるエールを賜りました。コメントを頂きありがとうございます。

細かいところは理解が及びませんが、ここまでよく調べられましたね…。。。
後は現地取材などを踏まえてイメージを膨らませて、小説にされるのですね…。。。
期待しております…。。。

URL | boubou ID:-

boubouさん、ありがとうございます。

◆どうやって創作時のモチベーションをキープするのか?について◆
先にも述べましたがGoogleアナリティクスで「笊川の戦い」がかなりのアクセスを受けていることが判明し、これが執筆への強い追い風となっています。

◇執筆時に特に重視していることについて◇
書き留めておかないと先に調べたものを忘れてしまいそうですが、まるでジグソーパズルを組み立てるような作業と認識しております。(笑)ここで肝心なのは
❶どの部分にスポットを当てるのか?(今回核となるのは、あくまでも「笊川の戦い」です。先賢の郷土史家や学者は往時の混沌とした情勢について触れているものの「笊川の戦い」にテーマを絞った文献は殆ど見当たりません。ここに自分の出番を強く感じます)
❷全体の流れを掴む(最初は伊達稙宗に分があったのですが、徐々に子の晴宗が主導権を握り、それとともに取り巻きが変ってきた。
➌数回行われたと思われる「笊川の戦い」ですが、各戦いごとにメンバーが変り、狙いも変ってきている。
❹取り巻きは後期になればなるほど戦いが終結した後に得られる報償を意識している。
etcにございます。
まさに戦国の乱世を渡り歩く渡世術とも言えますが、運の占める要素も相当あったと受け止めております。

◎御礼◎
お陰様で、本日もお励ましを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

横町利郎様

歴史後援会への出席や相馬郷土会、分権の調査等
手間と時間をかけて素晴らしい歴史小説を執筆していく
横町さんの熱意に感服いたしました。
台風19号で氾濫しながらも今も人々に寄り添いながら
流れている旧笊川。笊川の戦いのイメージが
具現化してきましたね。応援しています
頑張ってくださいね。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

ここまでの道のりは長かったですが、登山で言えばようやく一合目という気が致します。周到な準備で時代背景(流れがどう傾いているか)や関わった人物を整理していけば、自ずと目指すところが見えてくる気が致します。

今後は自分の脳内で戦国絵巻をどう描くか?ということになりますが、四五年前の相馬転勤時代の相馬野馬追見物も役立ちそうな気が致します。
今回の氾濫で脚光を浴びた笊川ですが、歴史について語られることは殆どないようです。人様が殆ど書いてないというところに、自分が書く意義を強く感じます。それとブロ友様からの支援は大きな追い風となります。

おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。


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