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北目城跡の現在

仙台領古城書上などによると北目城は寛正年間(1461年~1466年)に粟野氏によって築かれ天正年間(1573年~1592年)まで粟野氏の居城で、その後慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで伊達政宗が白石城の上杉と戦うための拠点として使われたとされる。北目城を拠点とした粟野氏は他に、茂ヶ崎城や沖野城にも拠点を持ち、北は国分氏、南は伊達氏を境にして、戦国期には東西に細長い領地を得ていたものと推定される。本丸のあった場所は国道4号線仙台バイパスと広瀬河畔通の交差点の辺りであった。


※発掘調査が行われた現ルートイン仙台長町インターの界隈


A北目城跡遠望 - コピー

平成4年~平成5年にかけて発掘調査が行われ、複雑に屈曲した堀跡などが発見されている。城と隣接する西側の地区には城下集落推定地と御菩提(ごんぼて)屋敷があったとされる。今となって痕跡はほとんど残ってないものの、東街道などに見られる道のうねりに、微かに往時の面影を重ねることができる。堀跡の多くは埋められたが、一部の堀が護岸工事を施され今でも現存する。堀は城の周りだけでなく、集落周辺にも巡らされていたようである。


郡山四丁目の往時の堀と思しきもの


B郡山四丁目の堀跡 - コピー

粟野氏9代の大膳亮国定の信仰した毘沙門天堂は現在荒町に移転されたが、北目宅地内に現存する毘沙門天堂はその旧鎮座地と思われる。


北目宅地の公民館に隣接する毘沙門天堂


C毘沙門天王堂 - コピー

天文の乱が招いた波紋

やがて粟野氏は天文年間の天文11年(1542年)~天文17年(1548年)に伊達稙宗(伊達氏14代当主)と伊達晴宗(同15代当主)との間に起こった天文の乱(骨肉の争い)に巻き込まれることになる。乱は晴宗側の勝利に終わったが、粟野氏は乱の終始に渡って稙宗側についたことが、その後の粟野氏の衰退(晴宗側の仕置があったようで、第11代の長国死去(1556年頃)以降は独立性を失い、伊達の家臣団に組み込まれた)を招いたようだ。


乱終結後、晴宗は本城を桑折西山城から米沢城に移したことで、現宮城県南部の防御が手薄になった。これに目をつけたのが相馬氏であり、稙宗の十二男の亘理元宗であった。亘理元宗に至っては次男を北目への養子にする話が頓挫し、その恨みをいつか晴らすべく機会を見計らっていた。


また、粟野家を継いだ当主(後の宗国)がまだ幼かったことに乗じたとも解釈できないこともない。相馬氏が元宗の呼びかけに呼応したのはそのような背景があった。


笊川の戦い

郷土史家の紫桃正隆氏によると、この頃は相馬氏による宮城県南部(名取郡も含めて)の跳梁が行われたというが、伊達と相馬との間に起こった笊川の戦い(新笊川ではなく、旧笊川地区の辺りで起こった戦乱と推定)は最低三回に渡って行われたようだ。最初の戦いは弘治3年(1557年)で、伊達晴宗相馬盛胤(相馬氏15代当主)が戦い、勝敗は不明である。


第二回は永禄6年(1563年:一説に永禄7年とも)に行われ、この戦いでは特に元宗の抱いた私怨が大きかったという。二回目の笊川の戦いで大きな役割を果した張本人こそが亘理元宗だったのかも知れない。但し、元宗の伊達宗家への反発は単発的なもので、伊達輝宗(伊達16代当主)の時代となった頃には、何事もなかったように伊達一門の立場に収まっている。尚この戦いでは後の相馬氏16代当主となる相馬義胤が初陣を張っている。


第三回目は、輝宗が家督となった天正3年(1575年)である。この時は、伊達側の勝利に終わったとされる。輝宗は翌年の天正4年(1576年)に伊具郡の丸森で行われた「矢野目の戦い」で大敗(千以上とも言われる騎馬武者が阿武隈川の湿地帯に阻まれ身動きできなくなったところを相馬側に討たれた)を喫することになるが、或いはこの時の笊川での戦いの勝利がその後の油断に繋がったのかも知れない。


北目城跡を探訪した後で旧笊川に足を運んでみた。大雨が降る度に氾濫を繰り返す旧笊川は普段は川というよりも小さな堀のような状態だが、往時は新笊川などはなく、名取川の支流として北目城からやや離れたところを東西に走っていたわけで、周囲は葦などが生い茂る湿地帯が多かったと推測される。この笊川を境に伊達と相馬の武者が対峙したのは想像に難くない。私は往時のつわものどもが展開した戦国絵巻を脳裏に焼きつけ初秋の古戦場を後にした。


※大雨の度に氾濫を繰り返す旧笊川


D旧笊川 - コピー

横町挨拶
笊川の戦いは50年ほど続いた伊達と相馬の争いのほんの一こまに過ぎません。それでも福島県の浜通に本拠地を置いた相馬がなぜここ(現仙台市南部)まで攻めてきたのか?不思議に思うかたも多いことでしょう。いっぺんにとは言いませんが、本ブログはそのあたりの疑問に少しずつ答えて行きたいと考えています。ここで念頭に置かねばならないのは、往時の伊達氏の本拠地(本城)は仙台でなく山形の置賜郡の米沢にあったということです。距離にしてざっと100キロ以上はありますが、天文の乱後の伊達氏の領地が広すぎて、ここまで支配が及ばなかったというのが一番の原因と捉えています。

もう一つの理由として伊達氏の姿勢の甘さ(周辺大名と血縁関係を結ぶことで大名同士の無駄な争いを回避し共存共栄を図った)にもよるものと考えています。こうしたなあなあの体制に終止符が打たれ、弱肉強食の様相を呈してきたのは、独眼流と言われた伊達政宗の時代(1581年以降)になってからでした。そうした背景をお含み頂ければ、この笊川の戦いが何故行われたかが、朧ながら見えてくるものと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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E六百横町
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コメント

今日は、

歴史にうとい自分には物凄く難しい歴史随筆に
取り組まれてる横町様には敬服します、
多分、誰かが明らかにせねばならない過去を
掘りかえす素晴らしい行動ですね、
ご苦労は充分に判ります、
頑張って下さい、

URL | 雲MARU ID:-

史料の乏しい、郷土の歴史に取り組まれていますね…。多方面からの調査と現地取材から、具体像を紡ぎ出そうとされているのですね。。

URL | boubou ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

マイナーなものほどはまる傾向にあるのが歴史と認識しております。笊川の戦いを取り上げようと思った一番の理由がここにあります。この位置に到達するまで一歩一歩階段を登ってきたわけですが、ようやく書きたいことが見えてきた気が致します。相馬野馬追のキャッチフレーズは「勇壮な戦国絵巻」ですが、笊川の戦いでもそのようなシーンがあちこちで見られたものと察しております。

そう考えますと、数年前の相馬勤務と相馬野馬追見物がここに来て大きな転機(単に伊達から見た伊達相馬の相克に留まらず、相馬から見た伊達という展開も視野に入ってきたという意)となった気が致します。おはからいにより、本日も厚誼を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

「歴史は勝者によって創られる」という方程式があり、伊達と抗い衰退に至った粟野氏にまつわる史実を掘り起こす難しさがここにございます。それでも数冊の良著と巡りあい、執筆への手掛かりを掴めたのは幸いと受け止めております。史実を掘り起こす度に粟野氏と相馬氏の結びつきを強く感じます。粟野氏を「剛の者」と例えた先賢がおりましたが、正に権力に抗い靡かぬ者こそが粟野氏とも捉えています。

同時に歴史研究のテーマはそこらじゅう、無数に散らばっていることへの普遍も感じます。これを自分に言い聞かせてこれからも郷土史への研鑽を深めて参ります。おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。


横町利郎様

こんばんは~
歴史小説「笊川の戦い」執筆にあたっては
大変なご苦労ですね。調査に基づいた執筆活動
現地取材は欠かせませんね。
どうぞご無理しません様にご成功を祈ります。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

早速クライアント様から依頼を受けている歴史作品で「笊川の戦い」を投稿しました。先人があまり踏み込んでいないということに自分の使命感を抱いています。最近の図書館訪問で著物を探す条件は「笊川の戦い」が行われた頃の時代背景がよくわかるかということです。

地道ながら研鑽を続け、執筆の大きなバックボーンとなる更なるモチベーション蓄積を心掛けたい所存です。今回も格別なるエールを賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

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