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我がルーツと大河北上 その1

三つ子の魂百までも
父方祖父について、今になって思えば軍人あがり昔気質頑固な性格となろうが、幼い私にはその片鱗すら感じさせなかった。菊の花と酒をこよなく愛した祖父に溺愛された私は、祖父のそのような本質を見通せなかったのである。祖父は時としてあぐらをかいて机に向かうことがあった。恐らく祖父は遠方に住む叔父や北海道に嫁いだ叔母に手紙を書く事があったのだろう。祖父の机の引き出しは私の好奇心を満たす格好の宝であった。引き出しの中に仕舞っている祖父の煙管を引っ掻き回し火をつけないで吸って香りを味わったりした。私がこの引き出しの中のものをどんなに搔き乱そうが、裸足で庭を縦横無尽に走り回ったあげく、その泥足で座敷に上がろうが、祖父はけして私を叱ろうとしなかった。

※在りし日の祖父と私(石巻市横町の生家にて)

祖父は毎晩かかさず晩酌し、愛用の座イスに座って夜遅くまで酒を嗜んでいた。私は気を利かしたつもりで、祖父がくつろげるように踏み台や段ボールなどで肘かけや背もたれの”しかけ”を用意してやった。自分では祖父に喜んでもらえると思ったのである。しかし次の日の朝になって祖父の座っている辺りを見渡すと、いつの間にかそれらの”しかけ”はきれいに片づけられているのであった。幼い私には片づけられた理由など知る由がなかった。そんなことが何度繰り返されたのかわからないが、祖父から叱られたことはたったの一度もなかった。


祖父の意外な一面
子供心に温厚そのものに見えた祖父だが、一度だけ意外性を垣間見た時があった。あれは私が小学校一年のことだった。いつものように朝7時に住吉タワー(注釈:石巻河口の住吉神社の傍に建つタワー。撤去されて今はない。)から浜辺の歌のメロディーが流れた。その後間もなく晴れ渡った秋空に数発の花火が上がった。運動着のまま登校した私は30分後には君が代行進曲の演奏が鳴り響く中、クラスメイトとともに運動会の開会式に臨み、やや緊張した面持ちで校庭に並んでいた。その時、私は校庭の片隅の雲梯の前に祖父がいるのを発見した。昔人にしては背が高く、下駄を履き背筋をピンと伸ばし丸い眼鏡をかけていたので祖父はすぐにわかった。


祖父は腕を組んだまま温かい眼差しを私のほうに向けていた運動会が始まると、私は見るのに夢中祖父の存在はしばらく忘れていた。やがて自分の徒競走の番が来た。私は心臓が破裂しそうなほどの鼓動を感じた。それは他でもない。走るのが苦手だった為である。徒競走の結果は8名中7位だった。私は速く走れる友達を羨望の目で見るとともに負けることが悔しくて仕方がなかった。殊のほか、5、6年生の上級生は私にとって大人に見えた。「俺も早く上級生のように大きくなって速く走りたい…」運動会が終わると、私は祖父に連れられて帰路に着いた。そ帰り道で祖父からこう言われた「修作、きょう運動会を応援しているときに修作のうなじを小突く奴がいたからわしもそいつを小突いて成敗してやったぞ。」


私は一瞬何のことだかさっぱりわからなかったが、どうやらこの「仕返し行為」は、祖父が私を誰かと勘違いした挙句に取った行為のようだった。大人が子供をど突くこと自体、許されることでないし、けして笑い事で済まされないが、今思えば祖父の一徹な孫思いの気持ちが、高じて露呈した勘違いの行動であった。往時の祖父の心境を推し量る術もないが、この時の祖父の脳裏には、武士で言えば「仇討」のような一途な考えが横切ったのかも知れない。祖父にはそのような熱血的な一面もあったが、概していつも鷹揚な態度をもって家族を見守っていた。私はそんな祖父を今でも深く敬愛している。


尊敬して止まないのは祖母に対しても同じである。祖母は如何にも明治の女性という印象で、けして人前で出しゃばることがなかった。これが一家の平穏に繋がっていたのは疑う余地のないところである。あれは3歳か4歳のころだろうか、祖母は物心ついたばかりの私を丸光デパート(石巻唯一の百貨店)に連れて行き、ソフトクリームをご馳走した。またコーンシチューなどの洋食もよくご馳走になった。そして何よりも常に笑顔を絶やしたことがなかった。私は祖父のみでなく祖母にも溺愛されたのである。祖父母から受けたこのような深い恩愛に答えようと考えた時、既に二人はこの世に居なかったのである。

北上川河口の思い出
自分のルーツを知りたいという願望は、祖父母から受けた深い恩愛に対してのせめてもの恩返しである。こうした願望は自分の中で四十代頃から芽生えていた。しかしながら、仕事をこなさねばならない現役時代には、時間的な余裕が全くと言っていいほどなかった。そんなもどかしい思いをずっと抱いていた自分にようやくその好機が到来した。長い間勤め上げた企業を定年退職をしたのである。これを機に2017年2月に郷里石巻に出向き、祖父方の原戸籍を調べた。石巻市役所で原戸籍(はらこせき)を取得し、ようやく待望の祖父方ルーツをを調べ、六代前までの名前と生年月日が判明したのである。私は原戸籍と、これまで寄せられた親戚からの情報を基に家系図を作成した。親戚からの情報は菩提寺の過去帳を根拠としたものだが、原戸籍と過去帳を駆使しても知り得ることには限界がありすぐに壁に突き当たった。


そんな折に新たな活路をもたらしたのが、父方の従兄弟であるA氏から寄せられた或る情報だった。A氏によれば、先祖代々の言い伝えで一族のルーツは北上川流域にあるという。その昔岩手県にから北上川に沿って南下し、江戸時代初期には、仙台藩士・川村孫兵衛重吉の下で北上川改修工事に携わったと言うのである。私はこの先祖代々の言葉にこそ、自分のルーツを解く鍵があると考え、大河・北上川を河口からたどることを思いついた。


5月初めに私が最初に訪れたのは北上川河口である。あれは小学校4年のことだった。夏休みに私は祖父母に連れられ、北上川河口から就航する定期船で牡鹿半島先端の金華山に向かったのである。自分の小学校時代である昭和三十年代の頃の石巻には、栄華を誇ったかつての港町の面影が強く残っていた。北上川河口には大きな漁船も係留していた。住吉小学校時代の思い出としては、図工の時間に二度ほど河口の漁船のスケッチに行った記憶がある。持参したスケッチブックに大きな船を描きながら、私は遠洋漁業に携わる海の男に対して羨望さえ感じたものだった。


しかしながら昭和49年、新たな漁港が長浜(現石巻市魚町)方面に完成したのをきっかけに、河口付近の様相は斜陽に転じた。そして2011年には、それに追い討ちをかけるかのような大震災があった。今の北上川河口は震災当時からはだいぶ復興してきたものの、五十数年前の栄華を知る私には寂しい限りである。それでもこの日、希望を抱かせるような話題があった。それは牡鹿半島の島々と石巻を結ぶ船便の定期航路・網地島ラインの就航である。大きな目玉であるカーフェリー「マーメイド」には漫画チックな装飾が施され、観光趣向の色合いを強く感じた。


網地島ライン石巻発着所の目と鼻の先では橋のピア工事が行われている。2016年に石巻市は70億の工費をかけて湊地区と門脇地区を最短ルートで結ぶ鎮守大橋(全長505メートル)の建設に踏み切った。この新しい橋は2018年中に完成するとのことだが、この橋は石巻漁港と三陸自動車道を最短で繋ぐもので、これからの石巻の経済振興に大きな貢献を果たすものとして期待している。


二度に渡る藩政期の改修工事
ここで石巻港の藩政時代を振り返りたい。徳川幕府の江戸開府により、飛躍的に米の需要が高まると、伊達政宗はいち早くこれに着目した。これからは武力より経済の時代。そう思った政宗は大河・北上川の整備に着手した。葛西氏滅亡後新領地となった登米地方の河川改修に最初の着手したのは政宗の縁戚に当たる白石宗直(後に登米伊達家初代当主となる)であった。この工事は1605年(慶長10年)から1610年(慶長15年)にかけて行われ、それまでの野谷地(現登米市周辺)が農耕可能な土地へと生まれ変わった。その後の北上川改修工事(二期工事)に関わったのは旧毛利藩士の川村孫兵衛重吉である。政宗は関ヶ原の戦いで浪人となった川村孫兵衛の治山治水に関する高い技術力に目をつけ、召抱えたのである。そんな孫兵衛は新たな主君政宗の下で任務遂行に努めた。彼に課せられたのは当時大雨の為に氾濫を繰り返していた北上川の第二期改修工事だった。


彼は時に私財を投じ、第一線の人足と寝起きを共にしてこの大事業に挑んだ。人力や牛馬が頼りだった往時のことである。恐らく洪水時には命懸けの対応を求められたことだろう。ルーツが関わったとされるこの二期工事では、孫兵衛の技術力もさることながら、私は彼の人徳によるもの(面倒見の良さ)が大きかったものと捉えている。「川村様のためなら…」鋤や天秤を担いだ人足の多くはこうした思いに駆られ、毎日血と汗にまみれ気の遠くなるような重労働を重ねた。勿論体力、気力のない者にこの荒仕事は務まらず、多くの者が淘汰されていった。


「働かざる者食うべからず。食う為には恥も外聞も捨てろ。生き延びる為には主君を替えるのも止むを得ず。」これは私のルーツ代々の教えであったのだろう。祖父の姓からして恐らく先祖は葛西に仕えた下級武士(もしくは足軽)だったと私は考えている。足軽には雑草のような強さがあるが、生前の祖父の生き様(気丈な性分と七十半ばを迎えても海で水泳に及ぶ)を見る限りそのような血が自分にも流れている気がしてくるのである。恐らく我がルーツは中世の末期から既に力が衰え始めた葛西氏に見切りをつけるのも早かったものと察している。

ここで自分のルーツが何故士族(もしルーツが足軽であれば、足軽は士族に入らないので正確な表現でないが)だったのか?という問へ答える根拠を述べておきたい。それは1880年(明治13年)に始まった牡鹿原(現石巻市大街道で行われた士族授産事業)開拓に私の曽祖父(高祖父もか?)が関わったことである。ここで曽祖父(1863年生まれ)が広い農地を得られたのは、この事業に功労があった所以と受け止めている。


話を江戸時代初期に戻したい。1616年に始まった川村孫兵衛による工事は北上川河口にも施された。数々の難工事を克服し、北上川はそれまでの暴れ川の汚名を返上し、徐々に安定した流れと水量を持つ水運に適した川へと変わっていった。この大工事の完成が石巻を良質な港に変貌させる大きな原動力となったのである。その後工事は1626年近くまで続いたが、1620年(元和6年)には石巻から江戸に向けて初めての藩の米が出荷された。この時の米はたった500石であったが、その後の仙台藩の運命を変える記念すべき初出荷であった。


こうして江戸時代初期に水運流通の一大拠点となった往時の石巻には、その後南部藩や八戸藩、一関藩の各藩の米などが集まり、右岸、左岸には米蔵の他、材木蔵、肴蔵、塩蔵などが軒を連ねていた。こうした物流経済に直接的に自分のルーツが関わったという確証はなにもないが、幕末までルーツが何をしていたかを考える時、相当の確率で何らかの関わりがあったと推察している。やがて明治維新を迎え近代となり、陸運が水運にとって物流の中心になるまで、石巻の繁栄は続いたが、自分のルーツもその恩恵を感じながら石巻に愛着を感じつつ、この地に深く根付いてきたに違いない。

ここに、大河・北上川の河口の模様を如実に描いた紀行文を紹介したい。それは昭和六年八月に石巻を訪れた高村光太郎は紀行文「三陸廻り」の中の一文である。
「石巻西内海橋に近い福島屋旅館の欄干の前を大北上川が鷹揚に流れている。仲の瀬島(中瀬)を中洲にしていかにも古風な湾曲を見せて落ち着き払った、今引潮の強い波をあげているこの川を誰が人工の川と思わう。自然の流系追波川の水を横から鹿又でもぎ取り第四期沖積層の幾キロメートル貫いて殆ど天工に等しいこの川口の港を作り上げた昔の奴はすさまじい。」
どうやら、北上川河口には、石巻に初めて足を運んだ高村光太郎を驚嘆させるようなオーラを放っていたのだろう。自分のルーツを持ち上げるのも何だが、ここで言う「昔の奴」の中には自分のルーツも含まれているものと理解している。


米蔵のあった住吉地区へ
門脇地区で、新生石巻の手応えを感じた私は、次の目的地である住吉地区(門脇から一キロほど上流)に向かった。住吉地区は自分の生家である千石町(昔は横町と言われた)とは目と鼻の先にある町である。江戸時代、北上川を下ってきた平田舟の積み荷は石巻で千石船に積み替えられ江戸へと向かった。江戸中期の港町石巻には湊、本町、住吉の三箇所に藩の米蔵があり、湊御蔵は18棟で計5万俵、本町御蔵は9棟で計2万俵、住吉御蔵は18棟で計6万5千俵で合計13万5千俵の米を収納できたとされる。その住吉御蔵のあった場所が現石巻市立住吉小学校である。住吉小学校の東の端(川沿い)には「仙台藩米蔵跡」の石碑が建っている。住吉御蔵は1717年(享保2年)に建てられ、蔵の傍には船着場があった。上流から平田船で運ばれてきた米俵が陸揚げされ、当時は昼夜を問わず人足の稼働があったという。

※住吉御蔵跡(現石巻市立住吉小学校)


岩間のしずくこけのつゆ
たえず積りて大船の
浮かぶる大河北上の
広き流れのよどみなく

日日のつとめに
いそしまん


これは住吉小学校の校歌の三番である。「たえず積りて大船の」というところに、藩政時代の水運賑やかなりし頃の趣を感じる。船着場はこの他にも数箇所存在し、蔵で保管された米などが千石船に積み替えられ江戸に出荷されて行った。千石船は一度に2千500俵程度の米の積載に対して、平田船には一度に250俵~450俵ほど積載が可能であった。


幕末期の住吉町にはかつて旧相馬藩邸や毛利邸(戊辰戦争の時、幕府海軍副総裁の榎本武揚、新選組の副長土方歳三、仙台藩額兵隊隊長の星恂太郎らが立ち寄った建物、毛利家は代々住吉御蔵の蔵守を勤めた家)もあったが、今は取り壊され、それらを偲ぶ縁さえ失せてしまった。私は住吉小学校に通ったのは一年~三年までのたった三年間(その後仙台に移り住む)だったが、今思えば自分の郷里・石巻に対する深い愛情を育む大きな要因となったのがこの三年間であった。残念ながら往時は歴史には興味がなく、ただ漫然と朝夕、旧毛利邸の前を登下校に及んでいた。それでも学友と毎日のように北上川河畔で遊んだ思い出は今でもはっきりと己の脳裏に刻まれている。

※今は痕跡すらない旧毛利邸

あれは三年生の一学期頃だったと記憶している。やんちゃ坊主だった私は放課後に友達と北上川に木っ端の船(ただの棒)を浮かべ、これに石を当てて速く進ませる遊びをよくやった。巻石(石巻の語源となった石)のある住吉公園まで誰の船が一番早く到達するかというシンプルなルールだった。この遊びは、なかなかスリリングでエキサイティングな遊びだったが、川への投石を見た近所の住民の通報で間もなく禁じられた遊びとなってしまったのである。五十数年前の出来事だが、今になって通報したかたの気持ちを思えば、例え少量の石であろうが、母なる大河の川底が浅くなるのは居た堪れないものだったと察している。古くから川には神が宿るとされてきた。北上川は石巻市民の財産ゆえ、子供が石を投じるのは許せないことだったのである。


その頃、上流の袋谷地地区から登校していた同級生が居た。ちなみに袋谷地という地名は今の住居表示にはなく、水明(北、南)という地名に変わっている。この地区は袋状に川に突き出た地形であり、且つ一面に水田が広がる地域だった為、住吉小学校時代この地区に足を運ぶ機会は殆どなかった。しかしながら、この地区に住む児童と喧嘩したこともあり、懐かしい思いに駆られ、次の目的地として足を運ぶことにした。

続く
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