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去る5月4日に私は大崎・葛西一揆で大きな騒乱があった佐沼城を訪れた。本日はその背景を如実に示す動画を紹介したい。87年放映「独眼流政宗第26話」である。この番組には伊達政宗のライバルである蒲生氏郷が登場する。以下朝日日本歴史人物事典より引用
蒲生氏郷(1556~1595)



六角氏の重臣で近江国蒲生郡甘野城主蒲生賢秀の子。幼名鶴千代、忠三郎賦秀。洗礼名レオン(天正13年洗礼)。蒲生氏は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔。永禄11年(1568)年織田信長に降った父賢秀の人質として岐阜に赴き同地で元服。信長に従軍し数々の戦に参戦する。本能寺の変のときには日野に在城していて明智光秀の勧誘をしりぞけて安土から信長の家族を引きとり父と共に籠城。秀吉はこれを賞して光秀の欠所地5000石を与えた。天正11年(1583)年柴田勝家と戦い秀吉は氏郷の妹を夫人に迎え、その後も各地で武功を挙げる。

天正15年(1587年)は九州攻めに参陣し羽柴姓を与えられ、翌年正四位左近衛権少将となり松坂城に移る。天正18年(1590年)小田原攻めに参加し8月会津を中心とした陸奥、越後42万石に転封、会津黒川城に移る。その後、大崎葛西一揆や九戸政実の乱鎮圧のため出陣、その功により陸奥、出羽に18万5000石を加増され、総高は91万9000石に達し大大名となる。文禄1年(1592年)上洛し肥前名護屋に赴く。同年若松城本丸が完成しかつ城下町建設にも着手したが、文禄4年に満39歳 で病死する。
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著者見解
旧暦と新暦のラグがございますが、本日5月24日(実際は旧暦)は仙台藩祖・伊達政宗公の命日です。毎年この日には政宗公の廟所である瑞鳳殿で法要が行われます。本日はそれを踏まえて尊敬して止まない政宗公に関する記事を書きました。

伊達政宗にとって蒲生氏郷は正に目の上のたんこぶのような存在でした。秀吉は政宗の目付け役として蒲生氏郷を会津に置きました。92万石を与えられた蒲生氏郷は秀吉から見込まれるほど信望があったと捉えています。但し彼はわずか39歳で没しています。彼はキリシタンだったと言いますが、ライバルの伊達政宗は知っての通りキリシタンを赦した大名でした。

そんな二人がいがみ合うことになったのは不思議な因果と言わざるを得ません。歴史にたらればはございませんが、蒲生氏郷が後年まで長く生きていたら、我らが伊達政宗公は一体どうなったのか?気になるところです。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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