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旧北上川河口~住吉町散歩
自分のルーツを知りたいという願望は多くのかたが持っておられるものと察している。しかしながら、仕事や家事をこなさねばならない現役時代には、なかなかその時間さえ取れない。これは数年前に自分が感じていたことであった。そんな自分にようやく好機が訪れた。定年退職を機会に郷里石巻の祖父方の原戸籍を調べたのは昨年二月のことだった。但し、これと菩提寺の過去帳を駆使しても知りうることには限界がある。


壁に突き当たり暗礁に乗り上げた感のある私に、新たな意欲をもたらしたのが、父方親戚A氏から寄せられた情報だった。A氏によれば、先祖代々の言い伝えで一族のルーツは北上川にあるという。その昔岩手県にから北上川に沿って南下し、江戸時代初期に川村孫兵衛重吉の下で北上川改修工事に携わったと言うのである。私はこの先祖代々の言葉にこそ、自分のルーツを解く鍵があると踏まえ、思い切って北上川を河口からたどることを思いついた。

※大正2年頃の旧北上川河口(国土地理院)

5月12日(土)に私が最初に訪れたのは北上川河口である。あれは小学校4年のことだった。夏休みに私は祖父母に連れられて、北上川河口から発着する船で牡鹿半島先端の金華山に向かったのである。その航路が廃止となって久しい。そしてそれに追い討ちをかけるかのような大震災があった。今の北上川河口は震災当時からはだいぶ復興してきたものの、五十数年前の往時の繁栄を知る私には寂しい限りである。それでもこの日明るい話題があった。それは牡鹿半島の島々と石巻を結ぶ船便の定期航路の復活である。

※石巻と牡鹿半島の島々を結ぶ定期船マーメイド号(石巻市門脇にて)

また、石巻市は70億の工費をかけて湊地区と門脇地区を最短ルートで結ぶ鎮守大橋の建設工事に踏み切った。この新しい橋は今年中の完成とのことだが、高さ4・5メートルの河口堤防を越す全長505メートルのこの橋には新生・石巻への期待を大いに感じる。

※現在工事中の鎮守大橋橋脚(石巻市門脇にて)

そんな河口を右手に見ながら、次に向かったのは住吉地区である。住吉地区は自分の生家である千石町(昔は横町と言われた)とは目と鼻の先にある町である。江戸時代、北上川を下ってきた平田舟の積み荷は石巻で千石船に積み替えられ江戸へと向かった。江戸中期の港町石巻には湊、本町、住吉の三箇所に藩の米蔵があり、湊御蔵は18棟で計5万俵、本町御蔵は9棟で計2万俵、住吉御蔵は18棟で計6万5千俵で合計13万5千俵の米を収納できたとされる。

※大正2年頃の石巻市街(国土地理院)
黄色:私の生家
赤:かつて米蔵があった住吉小学校
往時はまだ石巻町だった。

水運流通の一大拠点となった石巻には仙台藩の米の他南部、八戸、一関各藩の米の他、尾去沢の長崎御用銅なども集まり、右岸、左岸の両河岸には米蔵の他、材木蔵、肴蔵、塩蔵などが軒を連ねていた。

ここで言う住吉御蔵の一部、或いは総てが明治期になって住吉小学校の敷地となったと私は考えている。


岩間のしずくこけのつゆ
たえず積りて大船の
浮かぶる大河北上の
広き流れのよどみなく
よどみなく日日のつとめに
いそしまん


これは住吉小学校の校歌(三番)である。
「たえず積りて大船の」というところに、藩政時代の水運賑やかなりし頃の趣を感じる。住吉小学校の傍には船着場があり、上流から平田船で運ばれてきた積荷が陸揚げされ、日々活気を呈していたはずである。船着場はこの他にも数箇所存在し、蔵で保管された米などが千石船に積み替えられ江戸に出荷されて行った。千石船は一度に2500俵程度の米(重量は150トン)の積載に対して、平田船は250俵~450俵ほど積載出来た。

※1620年、石巻港から初出荷の米を積んで江戸に向う千石船(「NHKその時歴史が動いた 伊達政宗百万石にかけた夢」より引用)

北上川中流域の拠点から石巻に米を運ぶ平田船(「NHKその時歴史が動いた 伊達政宗百万石にかけた夢」より引用)

ミック挨拶
昨日の袋谷地と前後しましたが、引き続いての北上川河口~住吉町探訪の記事を掲載しました。これまで北上川と自分のルーツの関わりについて、様々な文献や資料を調べて情報を仕入れ、ようやく随筆を書けるレベルにまでになりました。次は更なる上流域である登米などについて書きたい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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