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嘉永5年(1852年)吉田松陰が石巻を訪れた翌年の嘉永6年(1853年)にペリー率いる黒船が浦賀(神奈川県横須賀市)に入港し、日本を震撼させた。開国か攘夷かの決断に迫られた幕府老中の阿部正弘は各藩に意見を訪ねた。この時仙台藩主の伊達慶邦は断固開港を拒否し、場合によっては戦争も厭わずという強硬な意見を申し出ている。

翌年のペリーの再来航で追い込まれた幕府は大砲など最新鋭の武器の調達を試みたり、大船製造の禁令を解いたりするなどして対抗しようとしたが、米国の圧力に屈し遂に翌年の安政元年(1854年)に下田と箱館の開港を認めた。開国志向の視点に立てば過去二百数十年続いた鎖国による呪縛は解かれたのである。

この後、日本は開国か攘夷かを巡って意見が真っ二つに分かれ、やがて混とんとした時代(明治維新)に突入することになる。事件はその最中の1855年(安政2年)に起こった。4月24日(西暦)に名取の閖上沖で外国船と見られる黒船が目撃され、翌日の4月25日、石巻に入港したのである。

※石巻に入港した米国の黒船ビンセンス号蒸気の動力を備えた帆船。この時同船は大砲などの武器を備えていたものと推察している。絵から読み取る限り場所は河口近くの門脇辺りか?街中の中央からやや左に「船主」と書かれた大きな屋敷が確認できる。ビンセンス号恐る恐る日本船が近づいてゆく様が読み取れる。(仙台市史 通史編5 近世3 460頁より引用)

1ビンセンス入港絵図

黒船を率いたのは米国の海軍技士でもあった海尉ジョン・マーサー・ブルック(1826~1906)である。この時の乗員は16名で水路の調査が任務であったという。ちなみにブルックは後に大西洋横断海底ケーブルの敷設で活躍したり、アメリカに渡った咸臨丸の指揮を取ったりして歴史に名を残した人物であった。


黒船ビンセンス号の石巻入港の目的は水や食料、燃料の補給のためであったが、石巻には野次馬が四五千人押し寄せて大騒ぎとなり、仙台に早馬を飛ばすなどしたが、対応に当たった役人が穏便に対応したため、事なきを得ている。漁師の中には捕獲した魚を乗組員(水兵)に分け与えた者もいたという。補給を済ませたビンセンス号は牡鹿半島経由で4月27日には金華山沖に去っていった。


ちなみに1855年(安政2年)は私の本家の曾祖母のM(血は繋がっていない)が生まれた年であった。高祖母Rが赤子を背負ってジョン・マーサー・ブルック(往時29歳)が率いる黒船を見に行ったかどうかはわからないが、この偶然の一致には少し驚いている。前々年のペリー来航と言う前例はあったものの、石巻を震撼させた事件であったのは間違いないようだ。


ジョン・マーサー・ブルック(1826~1906)
2ジョン・マーサー・ブルック

横町挨拶

私はブログに吉田松陰の東北での足取りを掲載しましたが、嘉永5年(1852年)に松陰が石巻に立ち寄ったのは石巻人の誇りでもあります。松陰は儒教の中でも孟子思想に重きを置き、若年にしてぶれない思想家であり、明治維新に関わった多くの志士に影響を及ぼした人物です。


松陰が立ち寄った3年後に石巻に黒船が入港したのは、松陰の石巻視察が的を得たものであったことの証とも捉えています。(旅の目的は国内の所要な港湾や藩の学問所、思想家などを訪ねるもので、遊興施設などには一切足を運ばなかったと言われます。)


吉田松陰が遊歩した東北1

吉田松陰が遊歩した東北2


ところでこの時松陰は後の映画館「日活パール」付近となる仙台藩士粟野杢右衛門の屋敷に泊まっています。この時松陰が粟野杢右衛門とどんな会話をしたのか気になるところです。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


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3六百横町
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