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去る2月2日私は太白区長町~大年寺山にかけての界隈を訪ねた。主な目的は史跡の探訪である。この寺は宗禅寺と言って伊達に抗って没落した粟野大膳重国の墓標のある寺である。敢えて墓標と表現しているのは中に遺骨が入っているという確証がないためか?そのあたりの事情はわかりかねるが、位置から言って粟野氏の菩提寺と思われる。

1宗禅寺

インターネットでは二つの画像が存在するようだが、去る2月2日に私は宗禅寺にある粟野大膳重国の墓標をくまなく探したのだが、どうしても見つからなかった。(自分の粘り不足か?)

この画像は近世墓鑑定士の吉田幸弘様のサイトhttp://samuraihimago.blog.fc2.com/
から引用させて頂いた。吉田氏にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。

2粟野大膳重国墓標・近世墓鑑定士

ここで天文の乱(16世紀半ばに起きた伊達家骨肉の争い)で粟野氏がどんな立場だったのかを下の表で確認して頂きたい。伊達稙宗は仙台藩祖の伊達政宗の曽祖父にあたる人物で息子の伊達晴宗(伊達政宗の祖父)と争い、ついに敗れて伊具の丸山城(丸森)に隠居させれた人物である。終始稙宗側についた粟野氏に待っていたのが、仕置きであった。

3粟野氏の取り巻き

天文の乱が起きた頃の勢力図をご覧頂きたい。粟野氏は北に国分氏、南に伊達氏に挟まれるような形で東西に細長い領地を有していたのである。だがこの均衡は長くは続かなかった。伊達氏の圧倒的な力に押されて、やがて粟野氏は伊達の家臣団に組み込まれていったのである。

4粟野氏勢力図

粟野氏の略系図をご覧頂きたい。粟野長国の嫡男に生まれた重国(宗国とも)は1550年~1566年頃に生まれ1623年(元和9年)に没している。重国は弟の国治と領地のことでもめるなど、伊達政宗に対して絶好の取り潰しの口実を与えてしまい、仙台近辺に居られなくなったようだ。

その後磐井郡大原(岩手県、現・一関市、旧・大東町)へと所替えとなり、重国のあと亘理氏から養子に入った重清が政宗の長男・忠宗について四国の伊予宇和島藩へ行くことを命じられながら、これに従わなかったため、家禄没収の上に追放処分となってしまったとされる。なぜそこまで意固地になるのかわからないが、粟野氏の没落の背後には武士特有の面子が存在したと考えざるを得ない。

累系図

Google3D立体画像で仙台城(青葉城)と茂ヶ崎城と宗禅寺の位置関係を確認して頂きたい。居城とした茂ヶ崎城と菩提寺の宗禅寺は目と鼻の先である。

5Google3D立体画像

実は私が幼稚園~小学校一年にかけて住んだ場所(官舎)はこの辺りであった。今思い起こせば粟野大膳重国の墓標(背後の丘の上と思われる)とは目と鼻の先に住んでいたことになる。

6宗禅寺丘

横町挨拶
今回は残念ながら粟野大膳重国の墓標を見つけられませんでしたが、次回は必ず見つけたいと考えております。粟野氏は伊達氏の嫡流に抗ったために冷遇されたわけですが、その後に及んでなぜ伊達政宗の命(四国行き)に抗わねばならなかったのか?大変疑問が残ります。その気になって願えればこのように没落はしなかったわけですが、これは単なる結果論に過ぎず、歴史に「たられば」はありません。

このへんは極めて朧気なので次回の研究課題としたい所存です。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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7七百横町
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コメント

お早うございます、

見るからに立派なお寺に見えますが伊達に抗って没落した墓標のある粟野氏の菩提寺でしたか、
幼少時代には近くでお住まいだったのも奇遇でしたね、
ネットで二つの画像が存在ですか?
是非、次回は探し当ててください、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

奉公先を誤ったという言葉で片づけるにはあまりにも忍びないのが粟野氏の栄枯盛衰です。粟野氏はなぜそこまで伊達と抗わねばならなかったのか?これは今後の研究テーマです。

おはからいにより、本日も真摯なコメントを頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。

こんにちは。
なかなか興味深い一族のお話を紹介いただきありがとうございます。

私の勘違いでなければ亘理氏も伊達一族であるかと思うのですが、そこから来た党首が本家筋に抗うなんて相当の確執があったのでしょうね。

幼少の折に、お住いの地域の歴史の掘り起こしですね…。。。貴兄の郷土愛が伝わってまいります…。。。

URL | boubou ID:-

横町利郎様

史跡の探訪を兼ねて粟野氏の菩提寺へ
行かれたのですね。風格のある立派なお寺ですね。
幼少時代近くに住んでいたようで懐かしく
不思議な感だったでしょう。
戦国時代は駆け引きがあって歴史も面白いです。
研究課題も見つかって執筆が楽しみですね。
由緒ある崇禅寺又訪れてくださいね。

暇人ityさん、ありがとうございます。

実は笊川の戦いについて調べていくうちに粟野氏へ範囲が波及して参りました。亘理氏へのご質問についてお答えいたします。
2019年11月4日更新の拙記事【仮説】「笊川の戦いは三回行われた」
https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-2507.html
の上から4番目の表(天文の乱に関わった主な武家)をご覧になってください。

実は亘理氏は当初は乱に敗れた伊達稙宗側についており、形成が不利と見るや晴宗側に寝返ったのです。この変わり身の早さで救われた武将には著名な留守政影(伊達政宗の叔父であり、重臣として活躍)もございます。

この時代伊達家は天文の乱によって真っ二つに割れ、奉公するべき主君を模索していた時代でした。今回は大変いい質問を頂戴し感謝しております。ityさん、今週も良い週末をお迎えください。ありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

世の定めとは言え、権力に抗った者の行く末は似通ったものとなります。なぜこれほど抗わねばなかったのか?粟野氏にはこれを強く感じます。自分は歴史を哲学の兄弟と以前から申し上げていますが、自らの生き方と粟野氏の生き方を比べて感慨深いものを抱いています。

おはからいにより、今回も格別なる追い風を頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

在園した幼稚園もほぼ真向かいにあるのがこの宗禅寺です。従って寺の前には東街道が通っていたことになります。粟野大膳重国の墓標を見つけられなかったのは心残りですが、今後の執筆への足掛かりを残せた今回の探索でした。東街道とともに今後の研究テーマとして重んじて参りたい所存です。

今回も格別なるエールを賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

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