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去る2月2日にどうしても見つけられなかった仙台藩士(元中世豪族)粟野大膳重国の墓標を本日ついに発見した。近世墓鑑定士の吉田幸弘様のFC2ブログhttp://samuraihimago.blog.fc2.com/を拝見し、この墓標のあるおおよその位置をGoogle航空写真で割り出したのである。

とは言えGoogle航空写真は個人情報保護のために墓を表示させないようにしているので、位置は吉田様の撮られた写真に写っている背景の木立から推定した。

幸いにも私の勘はずばり的中した。粟野大膳重国の墓標宗禅寺の北西部の角に位置していた。左が粟野家の墓。中央の尖った墓石が粟野大膳重国の墓標である。

1正面より三つの墓原図

フェンスの外は崖になっている。下の道路は国道286号である。大膳重国の両側に位置する墓も関係者の墓標と見られる。墓地内の道路は浸透式粗粒アスファルトで舗装され、墓標が整然と並んでいるが、土木構造物の古さから見て、近年擁壁工事とともに墓地の改修工事が行われたようだ。北側と西側の両方が擁壁になっている角地のため、改修工事の過程で粟野家の墓の移動が行われたのかも知れない。

2道路を見下ろす

後方か見ると家族や親族の墓標に見えたが、或いは重国の家臣の墓が混じっているのかも知れない。

3後方より

粟野長国の嫡男に生まれた重国(宗国とも)は1550年~1566年頃に生まれ1623年(元和9年)に没しているが、年表とともに、彼が生まれた頃の伊達家の情勢を考証してゆきたい。粟野家の主君が天文の乱で敗北を喫した伊達稙宗(伊達政宗の曽祖父)であることをお含み頂きたい。息子の晴宗(伊達政宗の祖父)に敗れた稙宗はその後、丸森の丸山城(丸森城とも)に隠遁させられ78歳の生涯を閉じている。


・1555年(天文24/弘治元年頃、伊達晴宗が幕府から奥州探題に補任される。

・11代長国は伊達に仕えてはいたが、独立的な立場を継承し一時は名取33郡を領した。天文の乱終結後に、晴宗と抗った粟野氏は仕置の対象になった可能性が高いが、長国はそのような経緯もあって、失意のうちに1556年頃に死去したものと思われる。


・粟野長国死去に伴い跡継ぎの重国(宗国とも)が幼少の為、伊達側は仕置を始める。この頃から独立的な立場を維持していた粟野氏は勢いを弱め、徐々に伊達の家臣に組み込まれていった。

・1557年(弘治3年)伊達晴宗(伊達氏15代当主)と相馬盛胤(相馬氏15代当主)が名取郡の笊川(座流川、或いは沙留川とも)で戦う。


・1563年(永禄6年:一説に永禄7年とも)伊達一門の亘理元宗伊達晴宗の弟)が名取郡の北目某と不仲(不仲となった原因は元宗の次男を北目氏の養子にするという約束を北目氏が破ったこととされる)となり、相馬に加勢を頼んだ為、相馬が援軍を送って勝利を収めた。相馬側の資料によると、この時相馬義胤(17歳)が笊川の戦いで初陣を飾った旨が記録されている。

・1564年(永禄7年)伊達稙宗が丸森城に幽閉されたまま死去。

・1564年(永禄7年)~1570年(元亀元年)に相馬盛胤の伊具郡侵攻が活発化し、金山城、小斎城、丸森城を落城させる。


・伊達政宗(後の17代当主)が1567年(永禄10年)に米沢で生まれる。

・1575年(天正3年)伊達輝宗が名取郡笊川(座流川、或いは沙留川とも)で相馬勢を破る。

・1576年(天正4年)同年、相馬義胤が亘理郡に攻め入り、亘理元宗と対陣するも義胤が兵を引く。その直後、伊具郡で伊達輝宗と相馬父子(盛胤と義胤)が合戦に及び、相馬側の勝利となる。

・1581年(天正9年)伊達政宗が伊具郡で初陣を張る。この時政宗は弱冠15歳。政宗の成長とともに、その後伊具から新地にかけての領地奪還が活発化し、伊達氏の攻勢は1590年(天正18年)の小田原攻めのころまで続いた。


・長国の子12代粟野大膳重国(宗国とも)は茂ヶ崎に在ったが、その後北目城に移り伊達政宗に攻略されて磐井郡大原(現一関市)に追われる。重国は失意のうちに1623年(元和9年)に死去する。


石板には粟野大膳重国の沿革が刻まれているが、昭和57年に建てられたようだ。

4説明書きアップ太夫重国公沿革

伊達の宗家筋と徹底的に抗い、徳川期に入ってからは、仙台藩の分家となった伊達秀宗(伊達政宗の長男)の四国の宇和島行き同行も断り、領地を没収されてしまい失意のうちに逝去したようだ。彼がどこで死没したのか?或いは一関だったのか?それさえもわかっていない。

5右側原図

時代とともに、宗禅寺界隈は大規模な土地の改変が行われ、今は往時の縁を偲ぶのも難しくなってきており、変わってないものを見出すこと自体非常に困難だが、かつて粟野氏の居城のあった大年寺山の東端の山の端などは往時とさほど変わってないようである。

現在、粟野重国は交通量が激しい国道沿いの墓地の角地で眠っている。粟野家はかつて栄華を誇った中世豪族であったが、父子二代に渡って伊達の宗家と抗ったとは言え、あまりにも寂しく虚しい晩年であった。

6崖っぷち原図

墓参りを終え、国道脇の歩道から墓地を見上げてみた。木立の下が粟野家の墓標のある辺りである。

7見上げる

横町挨拶
粟野大膳重国の墓標はネット上の資料に乏しく、位置まで詳しく示したサイトは存在しないようです。自分は先日『笊川の戦い』という小品を書いて、粟野家の菩提寺への墓参りを思い立ちました。本日は願いがかなって良かったと考えております。彼を「権力に抗った剛の者」と評した郷土史家がおりましたが、これは的を得たものなのかも知れません。

歴史は常に勝者によって書き換えられて参りましたが、粟野氏は没落したがゆえに、それまでの栄華の多くが闇の中に葬られたと解釈しています。然らば、それにまたスポットを当てたい。そして捏造される前の真実を発掘したい。これが今の私の考えです。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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8六百横町
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コメント

お早うございます、

父子二代に渡って伊達の宗家と抗ったとされる
粟野大膳重国の墓標を遂に発見されましたか、
推測通りの位置だったのも凄い感でしたね、
もやもやとしたのも一気に吹き飛び爽快な気分
ですね✌️

URL | 雲MARU ID:-

横町利郎様

粟野大膳重国の墓標を見つけられて
墓参りを済ませ気持ちもすっきりして次に進めますね。
家臣の墓標かもしれませんが数多く並んでいます。
きっちり整列して今は交通量の多い
国道沿いに眠っているのですね。
今後も史跡探訪や執筆活動に力が入りますね。

雲MARUさん、ありがとうございます。

粟野大膳重国が、伊達家の命でなぜ四国に行かなかったのか?疑問が残ります。伊達政宗の人事は信賞必罰的なものがあり、有能な人材に関しては、例え父祖の代に難があっても本人に復活のチャンスを与えたり(欧州に渡った支倉常長などは父が素行不良で切腹させられた人物でした)、敵対した武将も能力があると見れば躊躇なく抱えた節(何度も寝返りを繰り返した大内備前定綱などがそうでした)がございます。

こうしたことを踏まえた上で考えると、粟野大膳重国が
①せっかくチャンスを与えたのに従わなかった
②能力的な問題
③領地争いの末、兄弟喧嘩という私情を藩政の場に持ち込み、政宗の心情を著しく損ねた為、問答無用で復活のチャンスさえ与えられなかった

などが考えられます。
いずれにしても今回の粟野大膳重国の墓所の発見で一区切りついた気が致します。即ち、突き当たったのは粟野家はかつて栄華を誇った中世豪族であったにも関わらず、大膳重国以外の墓がなかなかわからないという実情です。粟野氏に関する文献が少ないのも自分の執筆欲向上に寄与した気が致します。

お陰様で、今回も格別なる追い風を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

粟野氏はかつて栄華を誇った家柄でしたが、伊達宗家と抗ったゆえに没落したと言われます。実は天文の乱(1542年~1548年)の6年間の間に寝返った武将は結構多いのです。流れが伊達晴宗(仙台藩祖・伊達政宗の祖父)優位となった際、なぜ粟野氏が寝返らなかったのか?これは最大の謎とも言えます。

そしてせっかく与えられた四国の宇和島行きという復活の機会も自ら断り、領地没収となったわけで、このあたりに「剛の者」という形容詞が近いという印象を抱きます。今まであやふやだった墓標が見つかり区切りがついた気が致します。本日も有意義な御意見を賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

栗野氏の失脚、伊達への抵抗と、その後の復活のチャンスがなかったせいなのですね…。。。

貴兄の今後の調査と考察が楽しみです…。。。

URL | boubou ID:-

boubouさん、ありがとうございます。

史跡や墓標巡りをしていますと、時に「歴史は勝者によって作られる」という法則が虚しく感じられるときがございます。粟野大膳重国のこじんまりとした墓標を見ますと、中世の頃栄華を誇った豪族粟野氏の盛衰が手に取るようにわかります。

粟野氏に関する研究は既に数名の先賢の研究論文が存在しますが、比較的少ないがゆえに、自分がデジタル上に残さねば…という気持ちになりました。
従って、今回の墓所への取材はけして興味本位ではなくその使命感が高じての取材であるという旨を大膳重国の墓前で告げた次第です。

研究機関に属するかたなどからはディレッタンティズムと評されるのを覚悟の上で、これを一つの契機として、更に粟野氏に関する研鑽を深めて参ります。本日も真摯なコメントを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

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