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昨日の2月8日(土)、仙台市を通る東街道のうち東ルートを歩いてみた。なぜこのような命名に至ったのかの理由については記事を追って後ほど述べたい。

ここは広瀬川に架かる宮沢橋の左岸(北岸)から東街道東ルート方面を見渡したアングルである。実はこの辺りは鎧渕(よろいぶち・鎧淵とも)と言って鎌倉時代に戦が行われた古戦場でもある。文治5年(1189年)8月12日に東街道を下った源頼朝軍(実際に大軍を率いたのは頼朝の家臣・千葉常胤と言われる)が、これを迎え撃った藤原泰衡と戦った場所(古戦場)とされる。泰衡軍としては多勢に不勢で頼朝軍の勢いを止められず、その日のうちに頼朝軍は現榴ヶ岡の砦を突破し、多賀城にまで一気に攻め入ったと言う。昨日は鎧渕の辺りも取材したが、内容は後日の記事に譲りたい。

道案内版のある交差点のところが地下鉄南北線河原町駅である。画像からわかるように、道路は緩やかに左に湾曲し緩い下り勾配となっている。方角的には東に進む形となる。

2宮沢橋から河原町を望む原図

河原町駅を過ぎ河原町本通りを東進する。鎧渕のトラップ(泰衡軍は頼朝軍の勢いを止めようと、渕に大網を張り巡らしたとされる)を通過した千葉常胤率いる頼朝軍が、この付近を大挙して通ったのは想像に難くない。実は道路網が現代ほど整備されてない時代に、このような旧道が戦に使われたのは多くの資料にも登場するので、かなり確度のある話と解釈している。もちろん往時はこんな立派な道路はなかったわものの、少なくても騎馬隊が徒党を組んで通れるくらいの道は存在したものと察している。

1河原町から東街道踏切を望む原図

河原町本通りを更に進むと東北本線の踏切(東街道踏切)の前で道は大きく左(北)に曲がる。この曲がり角のコンビニの駐車場にバイクを止めさせて頂き、東街道踏切の辺りを偵察することにした。

3バイク河原町本通り

さて、このへんで東街道の東ルートと西ルート(あくまで仙台市内の経路という意味)を説明したい。黄色が去る2月3日に紹介した東街道の西ルートで、赤が昨日の2月8日に訪れた東ルートである。この二つのルートを比べるとどうも一本道とは考え難い。シルクロードが複数の道からなるものであるのと同様に、東街道も様々なところで枝分かれして北に向かっていると解釈したほうがごく自然である。このような理由で、今回は仙台市内に現存する東街道をわかりやすく説明する為に、敢えて東ルートと西ルートに分けさせていただくことにした次第である。

4地図

ここがJR東北本線東街道踏切である。高架橋は東北新幹線で、方角的には西側に向かうアングルとなる。

5東街道踏切から河原町方面を望む

私が東街道東ルートと定義したこの区間は直線路となっていてちっとも旧道っぽくない。このへんはそう目くじらを立てずにファジーな感覚で捉えるべきなのかも知れない。何せ時代が時代であり、東街道そのものが朧なものであり、古文書など、はっきりとした根拠が乏しいのである。むしろ時代が進むごとに道路が整備されていったと解釈するべきであろう。

6踏切を越えて直線道路になる

かつて足軽町の取材でブログに掲載した記憶がある伊達八幡神社は五十人町との交差点にある。この神社ができたのは藩政時代ゆえ、東街道形成の歴史から見れば新しいものとなる。伊達八幡神社はちびっこ広場や町内の集会所といった地域施設と同一敷地内に鎮座している。

7伊達八幡&ちびっこ広場

更に北に300メートルほど進むと、表柴田町とのT字路交差点の付近に白鳥神社が鎮座している。由緒としては正徳5年(1715年)3月、第4代藩主の伊達綱村公が勧請すると伝えられているので東街道の歴史から見れば比較的新しいものとなる。

8白鳥神社境内

白鳥神社からクランク状になった道を通り、更に100メートルほど北進すると東側(右側)にこのような「東街道」と刻まれた石製の道標(比較的近年に立てられたもの)がある。この通りを真っすぐ500メートル東に向かえば陸奥国分寺となる。

9東街道辻標

東街道の概念図をご覧頂きたい。ラフと言ったら叱られるが、このくらいの精度でないと表せないほど朧気なものと解釈するべき旧道である。地図で言えば「国分寺」と書かれたところが、石製の道標と近接した地点となる。

10東街道の凡そのルートだ

この道を500メートルほど行くと左手に陸奥国分寺が鎮座している。昨日はそこまで足を延ばしたが、読者様やブロ友様への負担を考え、画像の掲載や説明は割愛することにしたい。

11陸奥国分寺方面を望む

横町挨拶
東街道は知れば知るほどわからないところがいっぱい出て参ります。これははっきりとした論拠がないためです。それだけに調べ甲斐があるのかも知れません。陸奥国分寺側に向かわず直進し、仙台第一高等学校の東側を東街道とする説もあります。

果たして源頼朝の家臣・千葉常胤率いる藤原征伐軍がどの道を通って多賀城に向かったのか?興味が尽きないものを感じます。暫くは今回の感動に浸りつつモチベーションを高揚させるとともに、今後は新たな文献と向き合い、東街道に更なる見解を加えられるよう尽力して参ります。

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12七百横町
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コメント

こんばんは~♬

わたし地方の戦国時代で言えば、
戦いの際、だれがどの道を通ったか?
かなり分かっているようですが、
それ以前は資料も少ないのでしょうね。
道も随分変わっていると思うし・・
調べ甲斐があるとのこと、成果を楽しみにしています。

URL | 布遊 ID:-

今晩は

東街道 調べると面白い事が分かりますね
興味深いです
横町さんの探求心が刺激されますね(∩´∀`)∩

URL | maki1939 ID:-

布遊さん、ありがとうございます。

後年に造られた奥州街道と異なり、東街道は年代がかなり古いがゆえにその多くがベールをかぶったままです。教育委員会などの見解を基に考えるならば、仙台市内で少なくても二つの経路が存在したと捉えています。但しこの先は二つのルートが合流し、多賀城に至る道となると解釈しています。

東街道に関する研究は多くの先賢が取り組んだようですが、デジタル上での経路図に関してはまだ少なく、それもファジーなものが多く、ここに自分の見解の入る価値を感じています。まだまだ情報不足ですが、モチベーションだけは持っています。これを取り柄と考え、今後もルート解明に尽力して参ります。

本日も真摯なコメントを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

まきさん、ありがとうございます。

いにしへのロマンを感じる東街道にございます。驚いたのは某企業を定年退職されたかたが、県南の東街道とされる土地を買い取り、ご夫婦でカフェを開いたことです。これはかれこれ十年ほど前の話ですが、往時は恥ずかしながらピンと来なかったのです。しかしながら、これが今となって考えるとシンパシーを感じるものに変遷しつつあります。

まだ日本各地の経済流通が盛んでなかった中世以前、戦があれば人馬が通れるだけの道を確保する必要に迫られ必然的に道が造られたこともあったわけで、ここに道路の起源が多岐の理由から成るものを重ねます。

お陰様で、今回も格別なるエールを賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

お早うございます、

成る程、東海道も何本もの枝道もあったのも
当然でしょうね、
特に田舎道は近道とか回り道などあるのでしょうね、
確かな街道には石の道標が建てられていたのでしょうね、
調べてみると面白いですね、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

東街道はけして単調な一本道を指すのではなく、枝分かれした複数の旧道の総称程度に解釈しています。吾妻鏡には登場するようですが、論拠としては朧げなものが多いようです。合戦にも使われたようでここにロマンを感じます。想像が入る余地が多くなるだけに大河ドラマのYOU TUBE版などを観ながらいろいろと思いを巡らせてみたいと考えております。

2月2日に大年寺の門前町で偶然に見つけたステンレス製の立て札から受けたインパクトは大きく、今回の探索に繋がった次第です。お陰様で、本日も有意義な御意見を賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

はい、観光客が全く通ることのない場所ですね(^。^)
楽天球場の南側でしょうか、よそ者には全くわかりませんよ。
強いて言うならば、新幹線高架から目の届く場所なのか…。

何キロくらい歩かれるんでしょう。
すばらしいことです。

URL | おでかけ親父 ID:-

おでかけ親父さん、ありがとうございます。

ご質問の件ですが、楽天スタジアムから南東ないし南南東に1キロ~2キロの地点になります。自分は郷土史をいろいろと調べておりますが、敢えてどなたにもわかるように記事を書いていません。わかるようにかけば画像の枚数が増えるゆえくどくなります。従ってそれは自分の中で端折る内容に値することです。その旨をお含み頂ければ幸いです。

本日もお志を頂戴しました。ありがとうございます。

東街道、朧気であるがゆえに、自分の頭の中でイメージを広げる自由さがありますね…。。。

URL | boubou ID:-

boubouさん、ありがとうございます。

自分は今、某文芸誌に掲載する次の作品についていろいろと模索していますが、ここ数日の取材を経て東街道も大いにありと考えるようになって参りました。

その理由は「点が線になってきた」所以にございます。これによって書くことが放物線的に増してきた気が致します。
朧ということは多くの学者は突っ込みたがらないわけで、ここに自分の出番を感じます。原稿締め切り日を脳裏に叩き込み、これからは再取材や地固めをする時期と考えております。

おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。


横町利郎様

仙台市を通る東街道、東ルートと西ルートに枝分かれしているのですね。
戦国時代はそれぞれ知恵を絞ったルートを利用したと思われます。
時代考証を調べるのは面白いと思います。国道4号と交叉して
白石に至っているところ道はどこかでつながっているのですね。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

東街道を一本道とするととんでもなく遠回りとなることがあり、背理法で複数の道が存在したと考えております。道の形成過程ではもちろん前後関係が存在しますが、場合によってはこれも難解なものが多いと捉えています。これはシルクロード(古来から複数の絹の道が存在した)と重なるものを感じます。一例を挙げれば、宮城県沿岸部を走ったとされる東街道が白石(蔵王の近く)を通るとなると真西に移動することになりますのでこれは理に合わず、恐らく複数の道(沿岸ルート、内陸ルート)が存在したと解釈するしかないと捉えています。

カギは自分の足で歩いてみることと捉えています。これによって少しでも昔人の気持ちに近づければいいと考えております。本日も真摯なコメントを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

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