fc2ブログ
 Sir Winston Churchill - Funeral (I Vow To Thee) - The Nation's Farewell 


リンク動画について

1965年1月24日一人の偉大なイギリス人が亡くなった。彼の名はウィンストン・チャーチル(1874~1965)である。これはその時の動画である。彼は二つの世界大戦に関わった無二の政治家であった。


チャーチルが躁鬱病を患った政治家であることはあまり知られていないようだが、これは何と行っても彼の生前の実績によるものが大きいと感じている。彼は独裁者ヒトラーと正面から戦い、様々な困難を跳ね返すという離れ業をやってのけた政治家でもあった。「奇跡の人 チャーチル」とも称される所以である。


1葉巻


話を中世に戻したい。世界史で日の沈まぬ国と言って真っ先に思い浮かぶのは大航海時代におけるスペインだが、それから少し時代が遅れてイギリスがスペインにとって代わった。その原動力となったのはアルマダの戦い(1588年)でスペインの無敵艦隊を撃破した海軍であった。


更に時代が進み、海外貿易で得た莫大な富を国内の産業振興に投資したイギリスは18世紀後半に産業革命をいち早く成し遂げた。そんな日の沈まぬ大国イギリスにも斜陽という名のけして逃れることの出来ない運命が待っていた。


ウィンストン・チャーチルが生まれた時代はイギリスの栄華に陰りが見え始めるという微妙な時代でもあった。彼は自尊心とともに大変愛国心の強い政治家であったが、イギリスの覇権が徐々に衰えてきた時代(アメリカとソ連という二大強国台頭~冷戦へ)の狭間に生まれた政治家であった。


※以下の彼の略歴についてはTV番組「知ってるつもり」などを引用させて頂き、自分の主観を要所要所に織り込んでみた。


イングランドの名門貴族マールバラ侯爵の一族(父はその後政治家になり、母はアメリカの新聞王の娘で、英社交界の花形と言われた)として生まれた彼は、そのプライドがゆえに常に他人の後塵を喫することをけして認めない高慢な少年であった。


幼少の頃の彼はテーブルの上に玩具の兵隊を並べて戦争のシュミレーションをして遊ぶのが日課だった。例え先生に非を咎められてもそれを認めない頑固な性分は、時にクラスメイトの格好のいじめの対象にもなった。しかし彼はそんなことでくじけるような少年ではなかった。彼が考えたのは立派な軍人になって彼を見下げた人物をいつしか見返すことであった。青年期に入ると架空の戦争を文章化し、イギリスとソ連がアフガニスタンで戦争に及ぶシュミレーションを描いたりもした。


勉強に関しても自分の興味のない学科は全く受け入れす、頭脳明晰にも関わらずハーロー校(名門のパブリックスクール)時代の彼の成績はどんどん下がり、最後のほうはクラスで最下位であった。そんな父親は彼を政治家にするのを諦め軍人にしようと考え士官学校を受験させた。その試験さえようやく三度目にして合格している。但し士官学校入学後も遅刻常習の素行と勉強嫌いはついに直らず仕舞であった。


士官学校を卒業して間もなく父親のランドルフが急死した。チャーチルがいつしか首相になるという夢はこの時の父の死を機に決意へと変わりつつあった。それから先の運命が彼を変えることになる。彼はインドの従軍記者としてインド北部の内乱の最前線に派遣された。ここで眠っていた才能(文才)が一気に開花した。


彼は抜群の文章力を武器に、次々に戦記を書いていったのである。(この著作は後にマラカンド戦記として高い評価を受けるに至る)この頃から彼の学習姿勢にも変化が見られるようになった。日中は暑くてほとんどの従軍者が昼寝の時間に充てる中、彼は読書に勤しんだのである。その勤勉さが彼を一回りも二回りも成長させるものとなった。


作家として名を挙げた彼はその後南アフリカに渡った。ここで不覚にも敵のボーア軍の捕虜となったものの、脱走をはかり九死に一生を得ている。偶然が何重にも重なった結果の脱走劇だったが、これにはここ一番という時の強い運を感ずる。


帰国した彼は下院議員として政治家デビューを果たす。しかし海軍の増強を主張した彼は戦争を嫌った国民に強硬派として受け入れられず、支持率は落ちる一方であった。三十代の半ば、内務大臣として労働者のストライキ弾圧にも加わった際には多数の死傷者を出している。


第一次世界大戦が始まると、ついに彼は海軍大臣に就任した。しかしトルコの「ガリポリ作戦」に至っては拙攻に及び失敗に終わって数十万の命が失われ彼は失脚した。恐らくこの時の彼は強い鬱状態に追い込まれたものと推察している。


彼はロンドン郊外の別荘に引きこもり、現役の国会議員を続けながらも謹慎生活を送るしかなかった。人生の黄昏を迎えたかに見えた彼が再び日の目を見るときが近づく。1933年にドイツにヒトラー内閣が生まれ、ファシズムを掲げ他国への侵略を開始したのである。


時のイギリス首相であったチェンバレンはヒトラーと協定を結んで戦争を回避しようとしたが、これが失敗に終わる。ナチスドイツは勢いを利してフランスを攻略しその占領下に置いたのである。ナチスの次の目標はかつて日の沈まぬ大国と称されたイギリスであった。


ナチスドイツと真っ向から対抗し得る政治家はチャーチルしかいない…そんな国民の世論を背景にチャーチルは1940年5月10日に首相の座に就くことになった。この時のイギリス国民の心情を窺えば、この男でなければこの窮地は乗り越えることができないというくらいの思いが多々あったのだろう。


首相に就任し「ナチスには絶対に屈しない」と気丈に語るチャーチルだが、その発言とは裏腹に往時のナチス軍との間には決定的な戦力差があった。この頃のチャーチルはこの大戦を勝ち抜くには、アメリカとソ連の参戦をとりつける必要があったが、両国に足元を見られないために気丈に振舞う必要があった。イギリスは大国でありアメリカやソ連に比べて何ら劣らない国であると主張することが大戦後の利権に繋がると考えたのである。


2両軍の戦力比較


これは一歩間違えば取り返しのつかない事態に発展しかねないことだが、チャーチルは時に冷静に、時にわき上がる熱情を全面に押し出してことに当たった。ロンドンがナチスの空軍の爆撃に晒された際は、自ら防空壕と化した地下鉄に出向き、市民に平常心を装うよう激励した。こうしてチャーチルは抜群の統率力と外交力、実行力を駆使して、アメリカ参戦をとりつけ、やがて腰の重いソ連もこれに同調した。


3チャーチルとルーズベルト


これの危機管理力が最も発揮された期間こそがこの第二次世界大戦であった。その後チャーチルはアメリカ大統領のルーズベルトやソ連の第二代指導者のスターリンと会い、ヤルタ会談で第二次世界大戦後の処理を話し合った。この時スターリンは共産主義を敵視するチャーチルを最も警戒したとされる。


4チャーチルとスターリン


アメリカの経済支援を受け、既に軍事大国にのし上がっていたソビエト連邦にとって、極めて煙たい存在がチャーチルだったのである。米ソという二つの大国の台頭でその後イギリスの衰退は明らかなものとなり、一部にチャーチルの行ったこと(反共産主義思想が冷戦のきっかけとなる鉄のカーテン演説やその後自国における核保有を行う)が、却って招かざるものであったとする論評さえ存在するが、これは結果論と言うものであり、逆に彼の為した功績を空虚で朧気なものにすることになるというべきであろう。


※ヤルタにおけるスターリンの主張でポーランドはソ連側に渡り、西に移動させられた。

5西に移動したポーランド


横町挨拶

彼の粗(あら)を拾うのはたやすいことですが、果たして他の人間にあのようなこと(第二次世界大戦という非常事態で独裁者・ヒトラーから世界を救った)が出来たのでしょうか?それを思うと、彼の犯した落ち度ばかり攻めてはいけないと思います。それは欠点のない人間など存在しないからです。


彼は晩年近くになって国民からグッド・オールド・ウィニー(好々爺・ウィンソトンおじさん)と呼ばれましたが、彼の人柄が偲ばれる気が致します 。彼をよく知る人物は「60を過ぎて衰えるどころか、益々切れ味を増した」と述べています。私も60代になって数年経ちますが、少しは往時のチャーチルを見習いたいと思います。また欠点には敢えて目を瞑り、チャーチルの幅広い視点と危機管理に長けた面を高く評価したいと考えています。


6満面の笑み


本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。



7六百横町

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)