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私は去る2月15日に亘理町(一部山元町)を走る東街道を巡る史跡探訪を行ったが、その際に立ち寄った陸奥国亘理郡官衙跡を紹介したい。場所は常磐線逢隈駅の西側である。近年近接地で宅地開発が行われたようだが、国指定となった史跡は今でもちゃんと残っている。

1陸奥国亘理郡官衙跡

隣接する住宅地は2セクションで、こちらは北側の史跡に隣接するセクション(建物の古さから言って造成された時期は昭和期と推定)である。下り坂の正面が常磐線逢隈駅(無人駅)である。

2住宅地の急坂

現地の教育委員会の説明板の地図は北と南が反対に描かれていたので、私が北を上にして書き換えてみた。

3教育委員会地図

ここは南地区の倉庫院と思われる場所である。数百キロと思われる礎石をこの高台まで運ぶのにどれだけの労力を要したのか?或いは馬や牛を使ったのか?興味の尽きないものがある。

陸奥国亘理郡官衙跡

三十三間堂官衙遺跡は、宮城県南部の亘理町逢隈地区にあり、郡衙(郡役所)を中心とする遺跡で、宮城県内の官衙遺跡三箇所の中でも最南端に位置する多賀城や郡山の官衙跡とは異なり、時期や規模から言って郡の官衙として機能したものと考えられる。遺跡には礎石群が10箇所以上あり、郡衙跡と推定される。奥州藤原氏の始祖である亘理権大夫・藤原経清(?~1062:藤原清衡の父)の居城地としての関連が有力視されいる。平成4年、国の史跡に指定された。


数度に渡る調査から平安時代前半(9世紀前半10世紀前半に存在した陸奥国亘理郡衙の施設であることが明らかになっている。これまでに、郡庁跡と見られる掘建柱建物跡や礎石式倉庫跡などが発見されている。南地区は倉庫(米などを貯蔵したと思われる)のあった倉庫院、北地区は丸形の硯が発掘されたことなどから、事務官衙である群丁院が配置されていたものと推定される。


4礎石A

周囲は雑木林となっていて往時の面影を偲ぶのに相応しい環境である。平安時代の役人たちは一体どんな言動で実務に当たったのだろうか?

5礎石B

こちらは北地区の実務官衙域(執務棟などがあったセクション)である。墓地と隣接した場所で、普段は墓参りに訪れたかたなどが散見されるものと思われる。敷地全体には勾配がついている。このセクションには礎石はないようだが、昭和後期の発掘調査で掘立柱のあった位置が確認されている。発掘時の写真も残っているようだが、ここでは割愛したい。

6掘立跡と道路

同じセクションを角度を変えて見てみた。方角的にはほぼ北側(仙台方面)となる。ここには段階を踏みながら、大小10を超える建物が建っていたことになる。

7掘立跡北側ビュー

横町挨拶
徐々にではありますが、東街道の研究に本腰が入って参りました。道はまだまだ険しいですが、一段一段着実に上がってゆくしかないと考えております。先ずは小手調べであってもしっかりとした足掛かりを残すことを強く意識して研究に取り組んでいます。官衙というからには当然都から役人が派遣されたものと思われます。然らば近くには東街道が走っていたことになります。

同時にここは阿武隈川から遠くなく、時に蝦夷などの北方勢力を食い止める要害としても最適な立地を重ねます。郡役所が建てられる前のことを考えるならば、或いはそのような用途に使われた時期があったのではないか?とも考えております。周囲には由緒のある神社も多く、機を見て神社も紹介して参りたい所存です。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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8六百横町
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