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本日は日本尊名ヤマトタケル)が勧進したとされる宮城県亘理町の安福河伯神社(あふくかはくじんじゃ)を紹介したい。ここは阿武隈川河畔の東街道と思しき道だが、ここで道が分かれている。真っすぐ進むと稲葉の渡し(田澤の渡し)で左に行くと安福河伯神社である。


1分かれ道


二百メートルほど西に進むとこのような鳥居が見えてくる。如何にも由緒のありそうな神社である。右側の建物は田沢活性化センターである。


2公民館


Google航空写真で位置を確認して頂きたい。

黄色:安福河伯神社

ピンク:稲葉の渡し

赤:陸奥国亘理郡官衙跡

いずれも東街道と深い関わりのあるスポットである。


3Google航空写真


竹藪や杉木立に囲われて建つ安福河伯神社だが、鳥居や石灯篭はけして古くない。それでも不思議なオーラを放っているように感じられ、参道を登る前から背筋を正されるような気持になる。


4立派な鳥居


安福河伯神社(以下:宮城県神社庁HPより引用)

現亘理町逢隈地区の史跡である「阿武隈川 稲葉の渡し」南西約二百メートルに位置する。

景行天皇41年(西暦111年)86日、日本尊命の勧請と伝えらる。文徳天皇仁寿元年(西暦851年)正月正六位に叙せられ、清和天皇の貞観5年(西暦863年)1029日戊子勲十等正六位上より従五位下を奉授、延喜の制小社に班した。


5社殿


安福河伯神社は延喜式内社亘理郡四座のうちの一座とされるが、家内安全・五穀豊穣・治水守護にご利益があるとして信仰されてい。彫刻が施された本殿は、亘理町指定文化財となっている


明神鳥居から続く石段の参道は、杉並木に囲まれており、清らかな空気とともに、神聖な雰囲気を醸し出している。境内には、本殿のほかに子安神社や神輿庫、仏様の彫られた石碑などがある。


6延期式


境内から南方を遠望してみた。周囲は広々とした水田が広がるが、ここは阿武隈山地の途切れる地でもある。東街道沿いということもあり、戦の際は様々な武将らがここで戦勝を祈願したのかも知れない。


7竹林と絶景


鳥居の前にはこのような複数の小さな祠が鎮座している。


8祠群


横町挨拶

日本武尊が勧進したとのことで大変由緒のある神社が安福河伯神社です。吾妻鏡には文治5年(1189年)に平泉攻めの源頼朝軍の海道筋の大軍が「逢隈湊」を越えたという記録が残っていますが、逢隈湊とはまさに稲葉の渡しの辺りを指すものと捉えています。


この大軍を率いたのが千葉常胤(千葉氏中興の祖と言われる武将)とされます。その後藤原氏討伐の恩賞により、常胤の三男となる武石胤盛が後に伊具・亘理・宇多といった現宮城県南部~福島県浜通北部を支配することになるわけで、安福河伯神社の存在とも相まって、ここに果てしないロマンを感じます。


昨日はYOU TUBEでNHKの過去の大河ドラマで放映された「炎立つ」(前九年の役~奥州藤原氏滅亡までを描いた歴史ドラマ)を見ましたが、これを楽しみにしながら、往時の時代背景を振り返ってみたいと考えております。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


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9六百横町

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コメント

こんばんは~♬

111年は、古いですね~
荘厳な感じがします。
そちらにも、古い物がたくさん残っているのですね。
実際見たものをTVで見ると、より身近に感じますね。

URL | 布遊 ID:-

ヤマトタケルの東征伝説がありますが、ここら辺りまで来ていたのですか…。ちょっと驚きです…。

URL | boubou ID:-

布遊さん、ありがとうございます。

この時代まで遡るとなかなか実感が湧きませんが、そんな際に大河ドラマは追い風になります。ドラマゆえ、もちろん史実とは違うのを意識しなければなりませんが、モチベーションを確実に上げ、自分の主観を増すのに大いに役立つ。自分はこれを重んじています。もちろん歴史番組からもヒントを得ますが、文献と現地取材も欠かせません。情報収集手段はやはり多いほうがいい(偏りは厳禁)と捉えています。

安福河伯神社、恐らく様々な歴史上の人物が願をかけた神社であると推察しております。おはからいにより、今回も格別なる追い風を頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

2世紀のことですが、これは宮城県神社庁の見解にございます。ちなみに他のサイトではなかなか少ない(皆無ではない)のは学術的な論拠に関することと認識しております。

それでも古い神社には間違いないようで、名取の道祖神社(佐倍乃神社:平安時代の貴族である実方中将の落馬の逸話がある神社)などとともに東街道の鍵を握る神社と捉えています。今は執筆に備え研鑽を積むのみと考えています。それには地道ながら、街道沿いと思われる複数の史跡を羅列して行きたいと考えております。

カテゴリーのタイトルを「東街道をゆく」としたのはその為です。お陰様で、本日もお志を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

こんにちは

日本武尊が勧進した。。。

コンパクトにみえる神社ですが
歴史のオーラを放っていますね。
ずっと護られてきた神社なのですね。

URL | つや姫日記 ID:-

横町利郎さん

西暦111年ですか
ヤマトタケルの時代とか

地元愛が凄すぎです
これから紹介しょうかいしてください

URL | まりっぺ ID:-

こんにちは、

やまとたけるのみことが勧進した神社が安福河伯神社ですか、
鳥居や石灯篭と石段の前だけでも前に立つと
背筋を正さなければならない雰囲気が感じます、

URL | 雲MARU ID:-

こんばんは

ヤマトタケルの名前から既にロマンを感じてしまいますが、本当に神聖で由緒ある、といった印象を受けます。彼にまつわる伝説などはとても興味深いですし、こちらまでと思うと本当に感激してしまいますね。

URL | Joey rock ID:-

つや姫さん、ありがとうございます。

安福河伯神社の創建は時代が時代だけにこれまで何度も建て替えられ、今日に至っているものと察しております。藩政時代も亘理城主の伊達成実の庇護を受けたようですが、明治維新のこともあり今の趣を見ると盛衰が感じられます。

そういう事情もあり、自分としては立地のほうに興味を惹かれました。恐らく頼朝軍の大軍が通った際に、この神社に戦勝祈願したのでは?と捉えています。

本日も厚誼を頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。

まりっぺさん、ありがとうございます。

年代が年代だけになかなか想像が働きません。頼朝軍の重役を担った千葉常胤が大軍を率いてここを通ったのでさえ、1189年(文治5年)のことですので、1000年以上の開きがあります。

源頼朝の藤原攻めは前九年の役後三年の役より百数十年後のことですが、この頃の時代背景を脳裏に叩き込めるよう研鑽を積んで参ります。今回も格別なる追い風を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。


雲MARUさん、ありがとうございます。

安福河伯神社は時代による盛衰も感じますが、宮城県神社庁の見解を見ますと由緒正しい神社だと思います。付近には渡し場を始め官衙跡(郡役所跡)もあるので、往時の中心地がこの界隈だったことを思い浮かべております。

本日も真摯なコメントを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

joeyrockさん、ありがとうございます。

安福河伯神社の由緒を知って驚いています。戦に於いては阿武隈川を挟んでの睨み合いもあったと察しております。その際は陣も張られたものと察しております。或いはここで勝鬨の声も上げたのかも知れません。いずれにしてもロマンあふれる立地で興味深いものを重ねます。

お陰様で、今回もお励ましを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

横町利郎様

由緒ある安福河伯神社、ヤマトタケルの尊が
勧進なさってしかも亘理町指定文化財
なのですね。石段の参道も杉並木に囲まれ
西暦111年とは古いですね。小さな鄙びた神社ですが
厳かな感じがして歴史の重みを感じますね。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

安福河伯神社は由緒ある神社ですが、中央政権側の思惑(俘囚に対して権力を見せつけ、従わせる)という意図もあった気が致します。(和泉竜一氏著「みちの奥二題」やまとたける「蝦夷征伐」より)

自分のルーツをたどるとき、或いは蝦夷(先祖代々の言い伝えによると岩手県の北上川流域に住み、その後南下して石巻に住み着いた)だったのかも知れません。然らば、このような延喜式内社の神社に際し、募る思いは万感といったところです。由緒を知るにつけ、同時に益々東北への愛着を重ねています。一週間ほど前からYOU TUBEで大河ドラマ「炎立つ」を毎日見ていますが、少しは往時の背景が理解できてきている気が致します。

お陰様で、本日もお志を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。


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