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三連休も中日の二日目となったが、本日は令和初の天皇誕生日である。天皇陛下は還暦になられたが、本日はメディアのインタビューで「もう還暦ではなく、まだ還暦という思いでおります」と仰られた言葉が印象に残った。そう言えば、かのウインストン・チャーチルが65歳で首相の座に就き、益々頭脳明晰に至ったというが、それから時代が更に進み、平均寿命が延びた現代の60代はまだまだ若いのである。自分もこれにあやかり、気持ちを若くし歴史や思想への研鑽を深めて行きたいと考えている。

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さて、東街道の話をしたい。本日は泉図書館に行って書籍を借りた。図書館で借りた10冊のうち、6冊が東街道に関わりのあるものであった、一口に東街道と言っても時代が広範囲に渡っており、これを理解するには複数の書籍を読まねばならない。その中で最も先にするべきこととして「年代ごとのルート」をざっくりでもいいので頭に入れることである。本日は図書から引用した図でその概要を説明したい。

この図は日本武尊が東征を行った際の主なルートだが、日本書紀からの引用である。北限が竹水門となっているが、多賀城とも、多賀城のすぐ近くの松島湾の南側の七ヶ浜という説が存在する。但し日本武尊の東征の北限は古事記によると常陸止まりだったとされ、時代が時代だけにあくまで推定となる。内陸部には海道(東街道)と並行して山道が走っている。

1日本武尊の蝦夷征伐リート

これは坂上田村麻呂の蝦夷征伐の頃のルートである。伊治とは現宮城県北部の栗原市、和我とは岩手県内陸部の和賀郡である。色麻柵とは蝦夷に備えて朝廷側が建設した柵のことである。

2奈良時代後半(八世紀後半)の山道と海道

これは藤原氏が滅亡に至った「文治の役」における鎌倉軍のルート(12世紀後半)である。藤原側の敗残兵が北に逃れて生き延びようと試みた跡が窺われる。海道説については海路を使ったという説も存在するが、宮城県の亘理郡にはれっきとした東街道があるので、そういう可能性もあるという程度に考えるべきであろう。

3鎌倉軍三つのルート

仙台近辺の東街道である。史跡をかすめるように通過しているようだが、詳細ルートについては想像の域を出ていない。圧倒的多数にものを言わせた鎌倉勢は広瀬川に仕掛けられた大網や、陸奥国国分原鞭楯(現仙台市宮城野区榴岡公園の辺り)を簡単に突破し、これを向かえ撃った藤原泰衡は一気に一関(現岩手県内陸南部)まで退却を余儀なくされたという。

4仙台近辺東街道ルート

ここは陸奥国分寺の界隈だが、鞭楯(榴岡)も近いので、或いは車が並んでいる辺りを鎌倉軍が通ったのかも知れない。

5或いは東街道か?

ここは一昨年の秋に訪れた名取市の佐倍乃神社の傍の東街道である。整備が非常によく行き届いており、往時の東街道を偲ぶにはぴったりの場所と推察している。

6佐倍乃神社

これは亘理町北部の東街道推定ルートである。亘理町南部に関してはほぼ現在のアップルライン沿いとされているが、北部に関しては史跡が多いので特定が難しいところである。三十三間堂(陸奥国亘理郡官衙跡)を取り囲むように二つのルートが存在するが、私はこれを東街道がけして一本道でなかったのを意味するものと考えている。

7藤倉良雄氏小松堂と三十三間堂の史実研究5頁仙台近辺東街道ルート

横町挨拶
東街道について学ばなければならないことはまだまだたくさんあります。その前に年代ごとのルートを知ることで、頭の中の整理がつきやすくなると考えております。それにしても古来から様々な合戦が行われ、複数の人物が東北に派遣されたことに驚きます。これはもちろん蝦夷や奥州藤原氏の存在があるからです。自分のルーツ(先祖代々の言い伝えでは我がルーツは岩手県の北上川流域にあり、徐々に南下して石巻に住み着いた)をたどる時、或いは蝦夷にたどり着くのかも知れませんが、これは永遠の謎です。

文献を紐解くことも大切ですが、一方で大河ドラマ「炎立つ」も見て参ります。歴史作家星亮一氏は自らの著作「東北謎とき散歩」の中で康平5年(1062年)に行われた厨川の戦いでの死闘を語っていますが、凄惨な戦いの中で藤原清経(亘理を統治した豪族・奥州藤原氏の始祖)が斬首されたと言います。まだこの場面は見ていませんが、近いうちに見てみたいと考えております。

先ずは今は執筆に備え知識を蓄える時期です。それを深く脳裏に刻んで骨子の考証を進めて参りたい所存です。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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コメント

お早うございます、

東海道ルートは色んなルートが存在してたのですね、
佐倍乃神社の傍の東街道は杉と竹が両脇に綺麗に
立ち並び何となく昔の面影が偲ばれる気がします、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

東街道(東海道とも、但し関東東海地区の旧道と同名ゆえ、敢えて東街道とさせて頂きます)は時代が広範囲に渡っており、時代が経つにつれ枝道が多くなってきたものと推察しております。今回は時代ごとの凡その経路として見て頂ければ幸いです。
佐倍乃神社(佐具叡神社または道祖神社とも)の傍の東街道は最も往時の面影を偲べる道と捉えています。一年半ほど前のことでしたが、太古へのロマンを感じた散策でした。本日も有意義な御意見を賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

東街道の時代別推移、興味深いですね…。。。

北部でのルートの変遷もありだと思います…。。。調査の進展をお祈りしています…。。。

URL | boubou ID:-

boubouさん、ありがとうございます。

研究テーマの「東街道」ですが、古墳時代から平安時代ということで年代の範囲があまりにも広いのが特徴です。これは古代の日本の力学(中央政権に従わない勢力との長い戦い)を如実に表すものと受け止めております。時代が遡るほど文献裏付けが乏しくなりますが、これに反してロマンは一層募ります。その感動を肌で味わう為に大河ドラマ「炎立つ」のYOU TUBEでの鑑賞は欠かせません。

今は文字通り正念場です。複数の文献の熟読と大河ドラマ鑑賞の二本立てによって、モチベーションを落とさずに、一気に執筆レベルまでにもって行けるよう努めたい所存です。お陰様で、今回もお励ましを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

横町利郎様

図書館などで下調べ「年代ごとのルート」を知り
執筆に備えて行くのですね。東海道ルートの
探訪大変ですが往時の面影を偲べて
とても楽しみな執筆になりますね。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

東街道は戦のある度に整備され、騎馬隊を通す為に徐々に道幅を拡幅されてきたものと考えております。8世紀後半(坂上田村麻呂)~12世紀後半(源頼朝の藤原征伐)にかけて中央政権による東征が行われました。そのルートをはっきりさせることが東街道に関する執筆の大きな追い風になると捉えました。かなり大雑把ですが東街道のイメージを抱くには十分です。これをステップとして、一つ一つ階段を登って参ります。

お陰様で、本日もお励ましを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

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