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去る2月15日に私は宮城県南部の亘理町を訪ね、東街道を偲ぶ旅を行ったが、本日は亘理町北部の逢隈地区に鎮座する鹿島天足和気神社を紹介したい。ご覧の通り鳥居の傍には日章旗が掲げられ、如何にも由緒正しい神社と言う雰囲気である。

1日の丸と鳥居

さほど段数のない石段の山道をゆっくりと進むと社殿が見えてくる。境内には早春の光が降り注ぎ、神々しさが漂っている。狛犬の下の石垣が崩れているようだが、或いは9年前の震災の被害を受けた為なのかも知れない。

鹿島天足和気神社(以下Wikipediaより引用)

旧社格は郷社。亘理郡延喜式式内社四座のうちの一座である。 由緒書によると、景行天皇41年(111年)86日、日本武尊により現在の鎮座地の北にある神宮寺地区字ヲフロの三門山へと勧請されたと伝わる。桓武天皇の御世である延暦元年(782年)の5月朔日に祈祷を行ったところ、鹿島の神が凶賊討伐に神験を示したことから勅命により勲五等封二戸が与えられた。


清和天皇の御世の貞観4年(862年)壬午615日に官社に列し「鹿島宮」と称するようになり、同年同月18日には従四位上が授けられた。天慶4年(941年)に鹿島地区字北鹿島の樫木山の山頂に遷座し、その後、領主から神領寄付などがあったが、天正時代(1573-1591年)に起きた伊達氏と相馬氏の戦乱の影響で神領地が廃絶した。貞享3年(1686年)46日、亘理伊達家5代当主の伊達実氏が現在の地に社殿を再建した。


延喜式とは延喜式神名帳延長年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、「官社」に該当する神社のことを言う。



3狛犬と社殿

Google航空写真で鹿島天足和気神社の位置を確認して頂きたい。ヲフロ遺跡と書かれた辺りが日本武尊が勧進した時の位置である。従って創建時から約1・1キロほど南南東に移ったことになる。

4Google航空写真

ちなみにヲフロ遺跡に行ったところ、立札(ヲフロ遺跡と書かれている)が建っているところは民家になっていた。ここ(三門山の山頂とされる)に本当に日本武尊が創建した神社があったのだろうか?謎である。

ヲフロ遺跡民家

江戸時代に伊達実氏によって建て替えられた社殿は、その後に改修工事が行われたのだろうか?なかなか状態がいいようである。

5朱色の柵

これは主殿の脇に立っている建物であるが社務所ではない。副殿といったところか?建物が杉の大木に守られるようにして佇んでいるのが印象に残った。

6副殿

横町挨拶
亘理町の東街道に関係すると思われる神社の紹介は今回で三つ目となりました。前回紹介した安福河伯神社とは異なり、この神社は二度も位置を移動しているようです。特に江戸期の移動は伊達氏と相馬氏の戦乱の影響ということで、時代による影響が神社にも及んだことを強く窺わせます。最初に鎮座していた三門山(ヲフロ遺跡)は弥生時代の遺跡とのことで、日本武尊勧進説を裏付けるものなのかも知れません。但し残念ながら「亘理町 ヲフロ遺跡」はインターネットでヒットしません。亘理町教育委員会に問い合わせたり、亘理町図書館で参考文献を当たるしかない気が致します。このあたりは今後の研究課題となります。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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7六百横町
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コメント

こんばんは~♬

立派な神社ですね。
ほんと!神々しい感じです。
わたしもいくつかの神社を訪れ、
神々しさや荘厳を感じる神社に出会いますが、
それがどこから来るものか?
いつも不思議に思います。
わたし自身のその時の気持ちにもあるのでしょうか~

URL | 布遊 ID:-

こんばんは。

今回ご紹介の神社も歴史の重みを感じ神聖な感じがしますね。
長い歴の中で亘理町の東街道に関係する神社を
その足で訪れ、記事にする時は誇りも感じられる事と思います。
今後の研究で新たな発見があると良いですね。

URL | Joey rock ID:-

日本武尊が実際にどこまで進出したのかは、興味深いところですね…。。。

URL | boubou ID:-

布遊さん、ありがとうございます。

蝦夷への討伐を正当化する為の作為と取れないこともないのですが、亘理町の逢隈地区に日本武尊にちなんだ神社が複数あることだけで、東街道への羨望が一層強くなってきた気が致します。
同時に93年放映のNHK大河ドラマ「炎立つ」をYOU TUBEで見始めております。これはイメージを構築する為に欠かせないものと考えております。これは「炎立つ」のストーリーに流されるということでなく、あくまでも参考にしたいという意味です。今は人物の名と立場を覚えるのが大変ですが、整理がつけば興味が更に急加速するものと捉えています。

由緒には二度に渡って移転されたと書いてありますが、こういう神社は結構多いものと捉えています。ヲフロ遺跡の辺りに鎮座していた鹿島天足和気神社に一体どんな趣があったのか?それを提起する為にヲフロ遺跡の画像を掲載するに至りました。

お陰様で、本日も真摯なコメントを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

joeyrockさん、ありがとうございます。

東街道沿い(正確には付近)の一つ一つの神社を地道に紹介するのは根気が要ることですが、これを省略しての執筆はあり得ないと自分の心に言い聞かせております。寺社仏閣と言いたいのですが、この付近の寺は藩政時代以降の建立とのことで、このあたりに執筆のポイントが潜んでいる気が致します。

今はモチベーションが高揚してきましたので、大河ドラマ「炎立つ」をYOU TUBEで毎日見て、これをキープするよう心掛けております。「炎立つ」はあくまでもドラマですが、大きな時代の流れを掴むのに最適と考えております。これと朝カフェでの読書を通してゾーンを構築して参ります。執筆は「一瀉千里」(勢いを利して一気に突き進む)に尽きます。この機会を逃すと書けなくなります。従って今は時がいよいよ熟してきたと自分に言い聞かせています。

おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。

boubouさん、ありがとうございます。

伝説的な要素がないわけでないのですが、朝廷の東征を正当化する。或いは足跡を残すという作為を感じられなくもない、一連の神社造営と受け止めております。時代が古墳時代ともなれば朧とも言える領域ですが、このあたりまで執筆が及ばないと突っ込み不足となります。今はこれを肝に命じて様々な文献に目を通しております。

それまで単なる点に過ぎなかったものが線となり、面を経て立体に至る。今は日々の研鑽によりそうなることを期しています。本日もお志を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。



こんにちは、

いかにも古い歴史を感じさせられる重みのある神社
にみえますね、
2月15日は祝日でなくても日本国旗が揚げられた
由緒正しい神社を感じます、
今回も東街道への研究の奥の深さを知りました、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

分野こそ異なりますが、貴兄のブログは日章旗を重んじているようで背筋を正される思いが致します。秋田大学の新野教授の研究によると、延喜式神名帳に記されている神社は東北だけで109社あり、その中の24社が大和方面からの外来神とのことですが、この鹿島天足和気神社はその24社の中に入っているようです。同時に弥生時代のヲフロ遺跡との関りが気になります。

古代には陸奥に中央政権に従わぬ勢力がおり、こうした神社はそうした勢力(蝦夷)への当てつけと解釈するかたが多いようです。本日も真摯なコメントを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

横町利郎様

鹿島天足和気神社、周辺の大木に囲まれて
由緒正しき神社の風格が
日章旗が物語っています。
東街道沿い周辺にはたくさんの神社が
祀られているでしょう。一つ一つクリア
することで執筆活動に深みが増していきますね。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

この神社は二度も移転されています。この背景に様々な事情があったわけですが、その足跡をたどることは東街道の成り立ちを更に知ることに繋がると考えております。オフロ遺跡は弥生期の史跡とされますが、神社の成り立ちと何らかの関りがあったと考えるのが自然と捉えています。

航空写真で見ると網の目状になった道路は旧道であることを意味しています。東街道はけして一本の単純な道でないものの、東征の大軍を通す為に①道幅の確保②難所を避ける。という二つのことが求められたものと察しております。(ここよりも北部に位置する岩沼地区の発掘調査などで判明)

戦に使われなくなった後の道路は、その後近代~近世となり、生活道路として整備、改変されますが、航空写真を見ると何となく戦に使われた時の東街道が朧に浮かんでくる気が致します。今はここにロマンを感じていますが、執筆への原動力になっている気が致します。

同時に朝廷側が延喜式内社を建てた意図(蝦夷に権力を示し従わせる)と、現地の間に軋轢(中央集権に敢えて抗い祀る神を地元古来の神としたい)があったことも浮かんで参ります。本日もお志を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

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