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前書き

そろそろ文芸誌「みちのく春秋」の投稿の締め切り日が迫ってきた。今回はこれに備えて『東街道をゆく』亘理編をブログに掲載することにした。去る2月15日(土)の足取りを改めて振り返ってみたい。


喫茶「遊」訪問

自分が定年する数年前のことである。宮城県南部の亘理町を訪れた際、一風変わったカフェ(喫茶)を見つけた。その名は喫茶「遊」である。「遊」の立地は素晴らしく、なだらかな阿武隈山地の中腹から麓にかけて縫うように走るアップルロード(この付近はリンゴが採れるのでこう呼ばれている)に面している。建物は新しくカフェというよりも個人の住宅のようなアットホームな印象である。経営者は顔見知りでもなく、初対面となるので入り難い気がしないでもないが、私は意を決して「遊」に入ることにした。


住宅の玄関さながらの入口でチャイムを鳴らすと上品な奥様が応対され、棟続きの喫茶室に案内された。三方向が窓なので明るく解放感に優れている。趣味のいい置物などを眺めているうちに、コーヒーが運ばれてきた。奥様と歓談していると、ご主人を紹介され裏の離れ(隠れ家のような風情の小屋)へ通された。ご主人の年のころは六十代前半と言ったところで、笑顔がとても似合うかたであった。(現在は七十代と思われる)


この敷地はご主人が現役時代のころ田舎暮らしの夢を抱き、定年退職後に購入された土地であるという。更に驚いたのは敷地の一部に東街道が通っているということであった。ご主人にお願いして、東街道が通っていたとされる場所(小さな丘で隣地と隣り合う状況)を拝見させて頂いた。そこは細い木立に覆われた藪であったが、道と思われる部分の藪が刈り込んであり、確かに旧道の面影を漂わせる趣が感じられた。ご主人は土地を購入される際、ここに昔道路があったということを公図で確認したという。真偽についてああだこうだ述べる気は毛頭ないが、この時のご主人の目は爛々と輝いており、とてもロマンに溢れた話と感じた。


ご主人はバイクを趣味とされ、近辺の里山をほぼ毎日、自分の庭のように走り回っているという。もう一つの趣味が木工で、大木の輪切りなどを利した材料を巧みに使ってテーブルや椅子を製作されていた。趣味に生き、セカンドライフを満喫しているかのようなご主人には取り巻きも多く、喫茶には多くの近隣住民も訪ねてくるという。


※三方向から燦燦と日が降り注ぐ喫茶「遊」

1喫茶遊

それから数年が過ぎ、今度は自分が定年を向かえ、「遊」のことは頭の片隅に置いたままであったが、2月の半ば閃くことがあり、久しぶりに訪ねることにした。移動手段としてチョイスしたのは小回りの利くバイクである。バイクを選んだ理由はこの界隈の史跡や寺社仏閣をなるべく細かく巡りたいと考えたからである。ご主人とは8年ぶりの対面であった。私は過去に名取市でも東街道ゆかりの場所を訪れたことがあり、ご主人とは東街道に関する話などで盛り上がった。執筆する上でモチベーションは欠かせないが、こうした経緯もあり、東街道について書くための動機は十分に備わったと解したのである。


私はその足で亘理町図書館を訪ねて東街道に関係する資料をコピーした。文献にも目を通したので1時間半ほどの時間を要したが、急がば回れである。調べるべき地点を逃さない為にも事前の下調べは欠かせないと考えた。亘理町内には結構多くの史跡があり、とても一つ一つは回れないが、東街道を知る上で優先して回るべきところを数箇所ピックアップしてみた。回った順番ごとにそのスポットを紹介して行きたい。


陸奥国亘理郡官衙跡

三十三間堂官衙遺跡は、宮城県南部の亘理町逢隈地区のJR常磐線逢隈駅の西側にある国指定の史跡である。郡衙(郡役所)を中心とする遺跡で、宮城県内の官衙遺跡三箇所の中でも最南端に位置する。多賀城や郡山の官衙跡とは異なり、平安時代前半(9世紀前半~10世紀前半)に郡の官衙として機能したものと考えられる。


これまでに、掘建柱建物跡や礎石式倉庫跡などが発見されている。南地区は倉庫(米などを貯蔵したと思われる)のあった倉庫院、北地区は丸形の硯が発掘されたことなどから、事務官衙である群丁院が配置されていたものと推定される。


遺跡には礎石群が10箇所以上あり、規模から言って郡衙跡と思われる。奥州藤原氏の始祖である亘理権大夫・藤原経清(?~1062:藤原清衡の父)の居城地としての関連が有力視されいるが、清経にはここから南に十数キロ離れた亘理郡山元町の合戦原というところに居城とされた場所(中島城)があり、中島城と陸奥亘理郡官衙との関係は定かでない。三十三間堂官衙遺跡は平成4年に国の史跡に指定されている。


2掘立跡勾配

日本武尊が勧請した延喜式式内社へ

東北の延喜式式内社(『延喜式神名帳』に記載されている官選の神社)はけして多くない。或る学者の研究によると全国に二千数百存在する式内社のうち、東北では百を少し超える程度であるという。そのうちの24社のみが大和朝廷圏から勧請した神であるという。(残りの八十数社の神社は地元古来の神々を祀っている)逆に言えば陸奥はそれだけ異文化を吸収する気風が備わっておらず、反骨精神すら感じる気がする。


時代は古墳時代に遡る。大和朝廷は蝦夷を屈服させようとしてきた。未開の地を統治する為に宗教(異教を植え付け信仰させることで、思想を変えさせ手なづけ易くする)を用いたのは古今東西広く見られることだが、中央政権側は大和朝廷圏から勧請した神を信仰させることで、陸奥の住人に権威を表し、屈服を求める手段に使ったかのようにさえ思えるのである。日本武尊はそんな陸奥の征伐に際し、延喜式内社を次々に勧請していった。宮城県南部の亘理町にはそんな神社が四座存在するが、この日はそのうちの二座を訪ねた。


その1 鹿島天足和気神社

由緒書によると、景行天皇41年(111年)86日、日本武尊により現在の鎮座地の北にある神宮寺地区字ヲフロの三門山へと勧請されたと言う。桓武天皇の御世である延暦元年(782年)の5月朔日に祈祷を行ったところ、鹿島の神が凶賊討伐に神験を示したことから勅命により勲五等封二戸が与えられた。清和天皇の御世の貞観4年(862年)壬午615日に官社に列し「鹿島宮」と称するようになり、同年同月18日には従四位上が授けられた。


天慶4年(941年)に鹿島地区字北鹿島の樫木山の山頂に遷座し、その後、領主から神領寄付などがあったが、天正時代(1573-1591年)に起きた伊達氏と相馬氏の戦乱の影響で神領地が廃絶した。貞享3年(1686年)46日、亘理伊達家5代当主の伊達実氏が現在の地に社殿を再建した。


延喜式とは延喜式神名帳延長年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、「官社」に該当する神社のことを言う。


3鹿島天足和気神社本殿を斜めから

その2 安福河伯神社

この神社は枝道になるので土地勘がないとわかり難い。目印となる建物は岩地蔵排水機場である。 岩地蔵排水機場を北に100メートルほど進むと道が二つに分かれている。左に行くと安福河伯神社、右に行くと稲葉の渡し田沢磨崖仏がある。安福河伯神社は西暦111年に創建された水の神を祀る神社で、家内安全・五穀豊穣・治水守護にご利益があると信仰されてい。彫刻が施された本殿は、亘理町指定文化財となっている。明神鳥居から続く石段の参道は、杉並木に囲まれており、清らかな空気とともに、神聖な雰囲気を醸し出している。境内には、本殿のほかに子安神社や神輿庫、仏様の彫られた石碑などがある。


由緒としては景行天皇41年(西暦111年)86日、日本尊命の勧請と伝えらる。文徳天皇仁寿元年(西暦851年)正月正六位に叙せられ、清和天皇の貞観5年(西暦863年)1029日戊子勲十等正六位上より従五位下を奉授、延喜の制小社に班した。


往古の神領は田沢一村を寄せられたが、天正年中兵乱相継ぎ廃絶した。慶長7年に亘理領主伊達成実が社殿を造営し、更に祭粢料として一貫二百六十六文、また神主領八百八十文を寄進、爾来領主累代の崇敬篤く、寛政5年には十二石六斗九升の寄進もあった。安福河伯神社名は「延喜式神名帳」にあるが、「貞観紀」には安福麻水神、「封内封土記」には阿部隈明神社となり、明治12年郷社に列せられ、明治40幣帛供進社に指定せられた。


明治41年に宮原の水神社、明治42年に森房早川神社を合祀した。本殿は前記の通り亘理領主の造営したもので、流造で結構壮麗であり殊に彫刻に優れた技術が認められる。社の祭典の神幸はもと、田沢より南の亘理町に至り東折して荒浜港へ御着、汐の行事を行い更に西して本社に還る例であったが、今は地域内のみ渡御することとなり、630日の夏越祭の茅輪に火を点じ夕方から深夜にかけてこれを潜り悪疫消除を祈念した神事も廃止するに至った。また、田植使舞報告祭は6月20日前後に早苗を献じ五穀の豊饒を祈る風があり、氏子の農家は裏作をしないという禁忌がある。 


鳥居の傍には日本国国旗が掲揚され、如何にも格式ある神社と言う趣を呈している。蝦夷を牽制した大和政権の権威を感じる神社でもある。私は背筋を正される思いを抱きつつ参道の階段を下りた。


4安福河伯神社境内より

稲葉の渡し田沢磨崖仏

古来、稲葉の渡し阿武隈川を渡る重要な地点であった。磨崖仏はこの渡しの安全を願うということと深い関係があったものと思われる。この磨崖仏は昔から名が知られており、奥羽観迹聞老志、封内名蹟志にも記されている。左甚五郎が船を待つ間に彫ったとか、飛騨の匠の作とかの言い伝えが残っている。


5稲葉対岸

前方の阿武隈川に突出した岩塊に刻まれた磨崖仏群を田沢磨崖仏あるいは岩地蔵とよんでいる。この付近には古墳時代末期の横穴墓群があり、後にこれからの横穴墓の幾つかを利用してこの磨崖仏が刻まれたものと思われる。磨崖仏は鎌倉時代から室町時代初めのものと思われ、四窟からなり、四体の地蔵尊と三枚の板碑が刻まれている。磨崖仏を見ていると慈悲深い気持ちがひしひしと伝わる。恐らくここでは多くの旅人が手を合わせて道中の無事、無病息災を祈ったに違いない。

6石仏1

源頼朝は文治の役(1189年/文治5年)で28万の大軍をもって平泉を攻めたが、太平洋沿岸沿いの海道筋を北に向かったのが千葉常胤率いる軍勢だった。これを裏付けるものとして、吾妻鏡には鎌倉軍が逢隈湊を通ったという記載がある。逢隈湊とは一体何処なのか?逢隈湊として考えられる三つのうちの一つが稲葉の渡しである。(残りの二箇所は藤波渡しと鳥の海と考えられる)

※明治初期頃の地図(この頃は国道4号線や6号線が整備されていなかった)
7二つの渡し

横町挨拶
休日を利し、悪戦苦闘しながら本日は原形のようなものが出来ました。目標字数は5000字です。あと500字くらい不足のようですが、これは何とかしたいと捉えています。但し史実の羅列を在りのままに書くのは愚の骨頂であり、執筆家の風上にも置けません。ここに自分の主観を加えねばエッセイとは言えません。

今のところ考証不足は否めませんが、これをベースとして、加筆修正の上で3月10日まで文芸誌に投稿したいと考えております。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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8六百横町
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コメント

こんばんは

読ませていただきました。

今までの下調べの段階の記事とは
やはり格調が違いますね。
読みやすくもあります。

文芸誌投稿までさらに磨き上げてください。
お疲れ様です。

URL | つや姫日記 ID:-

つや姫さん、ありがとうございます。

歴史はとっつき難いとお考えのかたもいらっしゃいますが、敷居を下げる為に前置きのところに喫茶「遊」との関りなどを加え、いきなり歴史云々から入らないようにしてみました。少しでも読者に読みやすい作品とする。これは常々考えていることです。文芸誌ありきの執筆も考えなければならないのですが、字数制限(多すぎても少なすぎてもいけない)もあり、このような構成となりました。

但し、再読すると神社の説明がくど過ぎるのも否めない気がするので、このあたりを考えたいと思っています。お陰様で、本日も真摯なお言葉を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

こんにちは、
いよいよ、文芸誌「みちのく春秋」の投稿の締め切りが迫って来てるのですね、
奇妙なご縁で「遊」のご主人と話もはずみましたね、
敷地の一部が東街道が通ってたとは驚きです、
本日の投稿に加筆して完成間近ですね、
頑張って下さい、

URL | 雲MARU ID:-

こんばんは
 26日の私のブログにコメントを入れていただ
 きましたが、返信を致しましたが、どうしても
 投稿できませんでした。何故なのでしょうか?
 それで横町様のコメント欄に変身させていた
 だきました。あしからずご了承ください。

 同じ女性としてどうしても許せなくて更新しし
 まいました。彼女は東北大の医学部を卒業し博
 士号も取得したようですが、石巻赤十字病院か
 ら開業したようです。でも女性の気持ちを一番
 理解できるはずの女医さんがしかも私のような
 高齢者を相手に言うべきことではないような内
 容を平気で投げつける心理がどうしても理解で
 きませんでした。彼女は未婚者で(40~50)
代だと思われます。

URL | こだぬき ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

自分が東街道に興味を抱くきっかけが喫茶「遊」訪問であり、言い換えれば「遊」が取り持つ縁ということになります。文芸誌に掲載された暁には、是非みちのく春秋を「遊」のご主人に渡したいと考えております。

本日も真摯なコメントを頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。

こだぬきさん、ありがとうございます。

ご返事の件承知しました。自分は2013年から文芸誌に作品を掲載していますが、「我がルーツと大河北上」の次の作品は「東街道をゆく」に致しました。第一回は亘理編になります。宜しければ感想をお寄せください。

本日もお志を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

横町利郎様

文芸誌「みちのく春秋」の投稿
架橋に入っていますね。
「東海道をゆく」亘理編長文の執筆
感心いたしました。ご苦労があると
思いますが格調高い文章が
読者の心を引き付けるでしょう。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

実はこの東街道ですが、江戸時代中期頃まで東海道と呼ばれていたのですが、字に書くと東海と江戸を繋ぐ「とうかいどう」と見分けがつかなくなるので東街道とするように幕府からお触れが出た経緯がございます。従って今は東街道と書くのが一般化しています。実はこの街道は中央集権が東征に用いることで、どうしても必要不可欠なものでした。

奥州街道や陸前浜街道に先駆けること数百年(或いはそれ以上)の歴史を誇る東街道をどんな人物が通ったのか、ロマンの尽きないものを感じています。「遊」との出遭いが発展した東街道シリーズ。昨日は文芸誌の編集長と連絡を取り、投稿締切日を確認した次第です。発刊の折には「遊」のご主人にみちのく春秋を贈りたいと考えております。

昨日は図書館で、新たな資料を入手し、調べたいスポットが更に増えましたが、締切日とのにらめっことなりそうです。本日もお励ましを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。


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