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本日、福島第一原発のある大熊町では来たる3月14日の常磐線開通に備えて、一部に避難解除が出された。但し、人はまだ住めない。大熊町では2022年の春を目安に、人が住めるようにしたいと述べている。これが実現すれば実に原発事故から11年ぶりに人が住めることになる。本日それを知ったが、改めて震災の爪痕の深さを実感する気がする。

さて、明日(3月6日)からFukushima50(フクシマフィフティ)という映画が公開される。9年前の福島第一原発で一体何があったのか?50人がどんな役割を演じたのか?この作品に期待したい。

1フクシマ50

一部のブロ友様はご存じだが、実は9年前に私は福島第一原発の中で働いていた。それだけにこの映画には並々ならぬものを感じるのである。自分としては事実を歪曲することなく、ありのままに伝えるものであって欲しいと切に願っているが、近いうちに是非見たいと考えている。

2大熊町

以下はあの日のドキュメントである。

2011年(平成23年)3月11日14時頃
いつものように福島第一原発内の建設現場では一日の作業が始まり多くの職方が来て忙しく作業に追われていた。あと一週間もすれば今の仕事を無事に終えて仙台に帰れる…そんな考えを頭に据え、私はその問題の時間(14時46分)を迎えようとしていた。一回目の余震はそんなに大きくもなくあまり気に止めなかった。そしてあまり時間を経ないでついにその瞬間となった。
 
「プルルップルルップルルッ!プルルップルルップルルッ!」突然机の上に置いた携帯電話の地震予告音が不気味に、けたたましく鳴った。そして間髪を入れずに横揺れが来た。「地震が来るぞ!」と誰かが大声で叫んだ。このとき現場事務所で私の大声をよそに脇にいた人は来訪者と打合わせをしており、かなり揺れているのになかなか話すことを止めなかった。

しかし15秒くらいするとその揺れが尋常でないのは誰の目にもあきらかなものとなった。折りたたみテーブルやイスが一斉にスライドし狂ったように踊り始めた。周囲に何もない場所にいた者は全員がしゃがみこんだ。壁など掴まるものが周囲にあった者は全員が掴まろうとした。ロー、セコンド、サード…やがてそれは車のギアチェンジのように何段階も経た複合的な激しい揺れに発展していった。「キャー!」女性からは悲鳴があがった。
 
それは私がそれまで体験した中で最も凶悪な揺れだった。後でわかったのはこの地震のマグニチュードはが9・0であったことだが、その時は何がなんだかわけがわからなかった。膨大なエネルギーの放出はまるで地底の神が怒り狂ったかのようなものさえ感じた。 大地には雲の巣のように亀裂が入り、作ったばかりの建物の基礎や土間にひびが入った。この日はコンクリートの打設日だったので職人気質の左官工は揺れが納まってからも土間を仕上げていた。
 
足場の上にいた板金工は身の危険を感じ、安全帯を足場から外して飛び降りてもいいように身がまえ、足場と共に倒れるのを防いだ。引き渡しを前にした建物と足場が激しくぶつかった。地震の次は津波が心配だった。「ここは津波は大丈夫なんですか?」の問いにベテランの土工の親方が自信ありげに落ち着いて答えたのが印象に残った。彼はこう言い切った。「ここは海抜が高いので津波はきません。」そうこうしているうちに「非常事態なので作業を止めるように。」との連絡があり、社有車で帰ることになった。

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3月11日15時半~深夜
果たしてそこから深夜に渡る命がけの迷停徘徊が始まった。原発を出て家族のことが心配で仙台に戻りたかったが、原発の前の国道6号線は仙台方面がカラーコーンで全て閉鎖(乗用車1台が通れるスペースを除いて)されていた。情報がなく閉鎖された理由は一切知らされなかった。(後に国道に入った著しい損壊によるものであることが判明)私はやむなく、仙台とは反対方向のいわき方面に向かった。

いわきに向かったもう一つの理由はラジオで震源が三陸沖、宮城県沖と聞いていたので、少しでも震源から遠のけば被害も少ないだろうということだった。しかし、パトカー、消防車、救急車が頻繁に6号線を行き違い、周辺町役場からは臨時の災害放送が流れていた。あまりにも周囲の様子がおかしい…、事態が深刻でせっぱつまっている様子がうかがえる。
 
「こういうときは下手に動くとかえって危ない。」そう考えた私は隣町の富岡町のパチンコ店の駐車場で体力温存のために車中ビパークしようと考えた。(この日は夜間冷え込み、外気温は約0度で重装備がないと車中ビパークは無理)駐車場でしばらくじっとしていると、ホンダに乗った若者が血相を変えて猛スピードで海側から車を飛ばしてきた。しかしその飛ばしてきた理由がなんなのかすぐには理解できなかった。

しばらくすると、同じ駐車場で偶然宮城ナンバーの軽自動車に乗った男性と一緒になった。こちらから話しかけると彼は家が南三陸町にあり「ラジオで情報を聞いていたら南三陸町が津波で大変なことになっている。」と不安そうに話した。ホンダの若者が必死の形相で飛ばしてきた理由がやっとわかった。広範囲に渡る東北の沿岸を大津波が襲ったのである。
 
私は家族のことが急に心配になってきた。家は山の手のほうで津波の心配はなかったが、地震そのものによる被害や火事が心配だった。「こうしてはいられない。仙台に帰ろう。それがかなわぬのなら、せめて宿泊先である南相馬まで行こう…」ここから深夜の徘徊が始まった。国道6号線にできた段差はひどいもので20センチから30センチに及ぶものもあり、何度も車の下回りを段差にぶつけ、こすりながら進むしかなかった。
 
「一体この先でなにが起きているのだろう?」休んでは走り、休んでは走り、私の車での迷ていは深夜に及んだ。しばらくはくねくねした内陸路(旧道)を走り、町場では渋滞にもつかまった。「こんな時間にしかもこんな田舎で渋滞なんて一体どうなってるんだ?」
 
古い日本家屋の多くはつぶれており、町行く人の顔はみなひきつっていた。電気の全くない真っ暗闇の中、うねった道を車で走るには細心の注意が必要だった。道路のひび割れにタイヤを落としはしないか?陥没した道が車の通行によって更に沈まないか?車を路肩や水たまりに落とさないか?…そして悪戦苦闘の末、日付が変わったころに私は南相馬市小高区あたりまでなんとかたどりついた。
 
「ここまでくれば国道6号線を走れるかもしれない…」そう考えた私は内陸から海側に向けて車を走らせた。まばらな家が立ち並ぶ住宅地に来た時、景色が一変した。泥水で道路が茶色になっていた。私は「地震で水道管が破裂したんだろう…」くらいに考えて更に先に突き進んだ。ここで恐ろしい景色を目にすることになる。根元から折れまがった電柱、道路一面のへどろ、横転して運転席をひきちぎられた大型トラックの無残な残骸、不気味に暗闇に浮かぶ住宅跡らしき基礎、閉鎖され大幅に変形したコンビニ店舗…あまりの変わりようにこの道がいつも通っている6号線だと気づくまで時間がかかったのである。
 
しかしエネオス石油の看板を見たとき、ここが6号線に間違いないと直感した。私は恐ろしい津波の爪痕を見ながら、今来た海水にまみれたヘドロだらけの道をひき返し、午前1時15分ころに停電している南相馬の宿マルマンビレッジ(やや標高が高く津波に浸かっていなかった)になんとかたどり着いた。
 
命の危機に瀕したせいだろう。停電のため暖房がなく真っ暗で寒い宿の一室で私は異常なほど興奮していた。不気味な余震は一晩中続いたが、最も怖いのはこの宿まで津波が上がってくることだった。ゴーーッ暗闇の中で不気味な音が聞こえる。余震の音か津波の音なのか聞き分けできない。「くそっ、こんなことで死んでたまるか。気を強く持ってやる!」明け方まではあまり時間がなかったが私は孤独で不安な一夜を明かした。
 
孤独な暗闇の中で私の高ぶった気持ちを沈めてくれたのはポルトガル国歌の歌詞の一節「汝を勝利に導く偉大なる先祖の声を聞け!」という言葉だった。その時、一瞬私の耳には先祖の声がかすかに聞こた気がした。その声は私にこうささやいた。「ここなら絶対大丈夫だ。明日に備えて体力を温存しろ」と。

3月12日
余震が頻発して眠りが浅かったが、朝のうちから日があったのが救いだった。宿を5時半に出た私は内陸路(丸森ルート)を経て、半日がかりで帰路に着いた。国道4号線は避難や食糧などの買い出しで渋滞がひどかった。家に帰り、家族の無事を確認して落ち着きを取り戻したが、一歩間違えば危なかった。何か身の毛のよだつものさえ感じた。携帯電話も繋がらず、水も電気も止まっており、しばらくは耐乏生活を強いられた。

福島原発の一号機が水素爆発を起こしたのは翌日の3月13日のことであった。

3現状

横町利郎
間もなくあの日から9年が経とうとしています。自分も定年を果たし職場も変わりましたが、あの日の出来事は生涯忘れることができません。地震国の宿命とは言え、如何に非常時への日頃の備えが大事なのかを、多くの人に訴えた大震災でした。Fukushima50には事実を風化させない為の繋役を担ってもらいたいと考えております。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

4六百横町

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