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本日は亘理郡山元町の二つの遺跡にスポットを当てたい。両者とも東街道沿いにあるが、年代が大きく食い違っており、新しいほうの遺跡(大平館跡)は古いほうの遺跡(舘ノ内遺跡)の一部を踏襲した可能性が高い。即ち、奈良・平安期においては小規模だった館が、その後に及んで拡幅されたのかも知れない。山元町の教育員会が敢えて二つの遺跡に分けた理由については定かでないが、何らかの根拠があるのかも知れない。Google3D立体の広域画像をご覧頂きたい。山下第一小学校の西側に位置している。

0広域Google3D立体画像

東海道(アップルライン)沿いの住宅地の傍にこのような標柱が立てられているが、標柱には舘ノ内遺跡と描かれている。宮城県の郷土史家である紫桃正隆氏(1921~2008)が訪れた昭和40年代は、この辺りは一面の畑であったという。(『仙台領内古城・館 第四巻』より)

東街道は阿武隈山地の麓を走るので結構標高がある。住宅の合間から太平洋が見えるが、この館が存在した時期においても、ここから海が見えたことだろう。続日本紀(797年完成)によると養老2年5月2日の条に「陸奥国の石城、標葉、行方、宇太、日理と常陸国の菊田との六郡を割いて石城国を置く」と記されているが、日理は現在の亘理郡のことである。

山元町教育委員会の資料によると8世紀の初めには舘ノ内が存在したとされるが、もしそうだとすれば蝦夷征伐に向かった坂上田村麻呂が、或いはここを通ったかのか、それとも立ち寄った可能性がある。更に時代が進むと、寛治5年(1087年)に源義家が出羽の清原氏を討った際、弟義光が兄の援軍の為に下ったのもこの道(東街道)とされる。

1舘ノ内南西部より

東街道を挟んで西側には明光院というお寺がある。沿革を辿れば或いはこの寺もかつては館の一部だったのかも知れない。

2隣接する妙光院南東より

明光院の側道にはこのような祠がある。コンクリートの土間の上に整然と設置されているが、道路改変の為一箇所に纏められたものと思われる。

3妙光院脇祠

南の側道から東街道を望んでみた。山の麓なので敷地には緩やかに勾配がついているが、かつては平城らしく土塁や堀が巡らされていたのかも知れない。この道を真っすぐ行くと階段を経て妙見大菩薩に突き当たるが、これは中世以降相馬氏側の城主がこの地に居住したことを意味するのかも知れない。(相馬氏には妙見信仰があった)

5妙光院と舘ノ内遺跡東より

道の左にある白い標柱に注目。この標柱には「大平館跡」と記されている。紫桃正隆氏著『仙台領内古城・館 第四巻』には「古記」に大平長十郎の居館と書かれているとされるが、出自や年代などははっきりしていないという。戦国期において、この辺りの覇権は徐々に相馬から伊達へと移り変わっているが、上述した理由で大平長十郎なる人物は恐らく相馬の家臣であったものと私は考えている。

6大平館と舘ノ内遺跡

Google3D立体画像で縮尺をやや拡大してみた。南側に舘ノ内遺跡、北側に大平館跡と区分されているものの大平館のほうが時代が新しいので、両方の遺跡が館として使われていた可能性が十分ある。

7Google3D立体画像舘ノ内遺跡と大平館跡

山元町教育委員会の資料で町内の年代別の遺跡をご覧頂きたい。奈良時代初期には既に舘ノ内が存在していたとようだ。

8関連年表

横町挨拶
私は去る2月15日にバイクでこの旧道をバイクで北進しましたが、亘理郡(亘理町と山元町)は縄文時代~弥生時代~古墳時代に恵まれています。特に東街道沿いの遺跡は多く、百メートル~数百メートルの離隔で存在するほどです。この頻度を考えるとここが旧道・東街道であったことは間違いないという確証が得られた気が致します。但し、この界隈の遺跡は調査されてないものも多いようで、これは今後の課題とも言えます。

東街道は政治や文化の繋ぎとして使われた他、戦の際(古くは朝廷側の東征、鎌倉時代初期には藤原征伐)にも使われ、大変大きな役割を果たしたものと捉えています。それに面した遺跡を調べることで様々なことも見えて参ります。それだけにこの二つの遺跡(一つの複合遺跡と取れないこともない)がどんな人物にどんな役割を果たしたのか?興味の尽きないものを感じます。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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9六百横町
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コメント

こんばんは

いつもご訪問頂き有難うございます。
また、貴重なご意見を頂き有難うございます。

URL | ichan ID:-

舘の内とは、いかにも舘があったという、印象ですね~。。。それが、時代を経ても大平館跡に引き継がれたのでしょうね~。。。この地でないといけない、何か要所的な要素が見つかればよいのですが…。。。

URL | boubou ID:-

ichanさん、ありがとうございます。

いつもご厚情を賜り大変感謝しております。改めまして今後とも宜しくお願い申し上げます。

boubouさん、ありがとうございます。

かつては畑であったとされる舘ノ内ですが、すっかり宅地化され教育委員会としての調査は終わったのかな?という疑問を抱きました。時代が広範囲に渡る二つの遺跡ですが、肝は「平城ながら見晴らしが利く」という点にございます。やはり敵に襲撃されるというリスクを考えての館構築と考えております。

時代背景が移り変わり、様々な時代に様々な人物から統治を受けたと思われるこの館ですが、多くの部分がベールに包まれているのを実感します。壁に突き当たった感は否めませんが、更なる足掛かりを求めるのなら山元町の教育委員会や図書館での文献探しと認識しております。

好きでないとできませんが、今回の探訪でモチベーションは十分充電された気が致します。お陰様で、本日もお励ましを頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

お早うございます、

時代と共に道路の整備などで地形も変わり遺跡の一部もまとめられたりもするのですね、
道路脇の祠に整然と固められた形の違う石造も
面白いですね、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

この遺跡は一種の複合遺跡(二つで一つ)という見方もできる気が致します。複合と仮定した場合、時代的に広範囲に渡って存在し、時代を追うごとに様々な城主が存在したわけですが、実は真言宗明光院の南隣に妙見大菩薩がありまして、妙見信仰があることから、この館は中世の一時期、相馬側の支配下にあったのでは?と考えております。

これはあくまでも自分の所見ですが、大平長十郎なる人物の出自を解くカギがこのへんにあるように思えるのです。お陰様で、本日も有意義な御意見を賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

横町利郎様

やはり東街道沿いの遺跡が多く見られますね。
道路改変時に1ヶ所に集められた祠
妙光院の側道も趣さえ感じます。
舘ノ内遺跡奈良時代700年の
歴史ある遺跡なのですね。
「東街道をいく」執筆活動も進んでいますね。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

大平館跡と館ノ内遺跡は年代が違い、一対をなすものと考えられますが、敷地の隣接もあり用途的にも似たもの(居館の他要塞として使われた)であったと考えられます。大平館の城主である大平長十郎の出自など、情報としては極めてマイナーですが、インターネット検索で「相馬家臣 大平」と入力しますと、千葉常胤(源頼朝の藤原攻めで功が認められ広い領地を得た武将)にたどり着くようです。千葉常胤の子孫は相馬氏になったわけですが、非嫡男の武石氏(四男)などは、その後伊達の傘下に入り亘理姓を名乗っています。

これは昨日初めて知ったことですが、館跡と妙見大菩薩が今でも隣接することから或いは?と考えた自分にとって、この論拠がまんざら間違いでなかった証とも考えております。(参考にしたサイトの信用性の是非もありますが)宮城県の郷土史家である故・紫桃正隆氏(1921~2008)が知り得なかったことが徐々に明らかになるもの(糸口)と捉えています。

本日も激励の言葉を頂戴しました。おはからいに感謝しております。コメントを頂きありがとうございます。

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