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亘理町の東街道沿いは遺跡の宝庫である。本日は2月に撮影した画像をもとにそのうちの4箇所について紹介したい。Google3D立体画像をご覧頂きたい。吉田地区には僅か700メートルの間に4箇所にも渡って古代の遺跡が分布していることになる。この密度は尋常でない。

0Google3D立体画像

南から順を追って紹介したい。ここはサニータウン亘理の西隣に位置する一の坂遺跡である。亘理町史上巻によると「中原西の緩傾斜面の畑地に存在する遺跡で主として縄文後期中頃の土器片が出土した」とされる。

1一の坂遺跡東より

現在は阿武隈山地の麓に広がるリンゴ畑となっている。東街道の南側(向かって左側)には下り坂を控えているが、その坂の呼び名が命名の由来と思われる。

2一の坂標柱UPブログ用

一の坂遺跡から北に三~四百メートルほど北に行くと作田遺跡がある。設置したばかりの標柱を見ると、東街道を挟んで広がり、発掘調査で溝跡や土器、須恵器が見つかったという。

3作田から作田北へ向かう

阿武隈山地の緩やかな傾斜地に広がる遺跡である。東には雄大な太平洋が見える。

4作田標柱UP

作田遺跡から更に百五十メートルほど進んだところに作田北遺跡の標柱が立っている。既に土器や須恵器が採集されているというが、詳細はまだわかっていないということである。

5作田北遺跡南側より

作田北遺跡から更に百五十メートルほど北に進むと平場遺跡がある。平場遺跡はやや規模が小さいようだ。

6平場南側より

平場遺跡でも縄文土器が出土しているが、亘理町史上巻によると「縄文の施文から縄文中期末頃の遺跡」と考えられているようだ。

7平場遺跡東側より

横町挨拶
今から約1万2千年前から2500年前まで(BC1万年~BC5百年)と、1万年間近くも続いた長い時代でした。紹介した遺跡は数千年前から人の営みがあったということになります。ここまで時代が遡ると想像すら尽きませんが、この四つの遺跡を結ぶ道路がどんな形でそれぞれの遺跡に関わったのか興味は尽きません。同じ時期に遺跡が存在したとは限りませんが、何らかの理由によって、後世の人々がより住みやすい場所を求めて移動したとも考えられます。

古墳時代よりも遥かに時代が遡った頃に、既に現代社会で言う「村」のような概念があり、人々が集団を形成して生きていたという事実に際し、カルチャーショックのようなものを感じています。現代人は物資に恵まれているがゆえに、衣食住への感謝を忘れがちとなりますが、往時の人々は常に生死の瀬戸際を感じながら生活していたわけで、現代人から見れば却って学ぶところも多々あると考えております。

発掘調査にはまだまだ年月を要すると思いますが、少しでも往時の人々の生き様が浮き彫りになるのを願っています。亘理地方は海も山も近く、様々な好条件が揃ってこのような縄文時代の遺跡が存在したものと考えております。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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8六百横町
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