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昨日、息子とともに名取市指定文化財高舘城址を訪ねた。動機は東街道を語るのに避けて通れないと考えたからである。これは高舘城より更に40メートルほど標高が高い熊野那智神社の展望台から眺めたアングルである。現在はこのように樹木が繁茂していて、地形がほとんどわからない。案内板がなければ見落としそうな感じがする。

1熊野那智神社からの遠望

郷土史家の紫桃正隆氏は自著の『仙台領内古城・館』第4巻の中で「高館城は標高約160メートル、館山城址のある館山は熊野那智神社前で連山より分かれ、東北方向に伸びる半島状の山に位置し、基部のところが谷となるため、完全な独立形をなし、山一帯に遺構が認められるという。全容は東西が約300メートル、南北が250メートルに及び、険阻な独立形の山頂を用いた輪郭式状の山城で、本丸はその最高所にあり人工的な掘削が施されている」としている。

Yahoo地図の地形図で高舘城址の位置を確認して頂きたい。

2高館城跡地形図

航空写真をご覧頂きたい。麓のほうには東街道が走っているが、結構遠く山の手に存在するのがおわかりと思う。

3航空写真

名取市の掲げた見取り図をご覧頂きたい。紫桃氏の言うように結構規模の大きな山城であったことがわかる。

4等高線と配置図

「宮城県史」(観光篇)によると、「舘山は名取山、または那智山とも言い、安元年間(1175~1177)藤原秀衡が築き、後の文治年中(1189)本吉四郎が二万五千の兵を率いて鎌倉軍を防いだ云々」とされる。また「名取郡誌」では、「文治5年(1189年)8月、本吉四郎高衡と志波日詰五郎頼衡が鎌倉勢に拮抗せんがために築く」とされる。戦国時代末期には仙台藩祖伊達政宗の曽祖父である伊達稙宗も一時居城したとされる。


5名取市指定文化財説明書き

息子とともに遊歩道(堀切跡と思われる)を歩いてみた。この堀切が創成期の845年ほど前の平安時代に造られたものなのか否かは定かでないが、規模の大きさには圧倒されるものを感じた。重機もない時代に、こんな山の中でどんな普請が行われ、どれだけの労力が費やされたのか?興味の尽きないものがある。

6堀切

堀切は斜面に沿って掘られ、一方は急峻な断崖となっている。この城を落とすのは並大抵でない気がするが、中世の城にしては防御力が固いのを実感できる。

7断崖

途中には祠がまとめられていた。

8祠群

高舘城址の標柱は紫桃氏の訪れた四十数年前のものとは異なり、新しいものに替えられていた。紫桃氏の推定によると、ここから数十メートル麓に下ったところに大手門があったのでは?としている。

9標柱と堀切

横町コメント

高舘城に隣接する熊野那智神社の起源は大変古く、養老3年(719年)祀られ、古くは館権現とも称され保安4年(1123年)に熊野那智神社に改められたとされます。名取市の見解では城が築造されたのが安元元年(1175年)としているので、熊野那智神社に改められてから52年後になります。逆に言えば、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅びるまでは、この地には藤原方の勢力が及んでいたことになります。


今はピンと来ていませんが、この時代に起きた史実を更に把握することで、もっと実像化できるものと考えております。今後への新たな足掛かりを作る意味で、本日は高舘城に関する記事をアップしておきたいと考えております。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


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10六百横町
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コメント

熊野那智神社の名前に惹かれますね…。文字通り、紀州熊野の那智大社と関係があるのでしょうか…。
山城は、現場を歩いても、土塁や堀切が人造物か、自然の形状なのかの見極めが難しい場合がありますね…。

URL | boubou ID:-

boubouさん、ありがとうございます。

先ずご質問にお答え致します。http://kumanonachitaisha.or.jp/を参照になってください。「熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社で、全国約4千社ある熊野神社の御本社である」と書かれています。

今回の高舘城址訪問は「東街道をゆく」の執筆を見据えてのことでした。これを機に執筆の対象を増やして次回以降(第一回の寄稿は昨日終えたばかりです)の寄稿に役立てたいと考えております。ここで鎌倉軍を迎え撃った藤原秀衡についても調べることがいっぱいあります。そのようなことを執筆への糸口に繋げたいと捉えています。

今回も格別なるエールを賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。



お早うございます、

息子さんとの高舘城址訪問でしたか、
遊歩道もかなり険しく見えますね、
紀州熊野の那智大社とも関係があるのも青白いですね、
東街道の取材で色んな発見で新たな意欲が湧いて
来たと思います、
執筆を楽しみにしています、

URL | 雲MARU ID:-

こんにちは

このような険しい山の中に高館城があったのですね。本当にどのような方法で造られたのか、興味深いですね。
この城に関係した背景を看板の解説で読んでも
歴史の流れを感じます。
とても貴重な内容の記事をありがとうございます。

URL | Joey rock ID:-

こんにちは。高館山の散策お疲れ様でした。

城跡がそのまま神社になる例はいっぱいありますが、高舘城の場合は神社が先なのですね。珍しく感じます。情報を整理していただきありがとうございますm(__)m

雲MARUさん、ありがとうございます。

中世から戦国期にかけて長きに渡って機能したのが高舘城ですが、多くはベールに包まれたままです。このあたりに執筆の余地があると踏んでおります。今は史実の整理に追われていますが、自分なりに高舘城にまつわる出来事を箇条で羅列し、これを推進することで、何かが見えてくると考えております。それには名取市図書館での文献調べも不可欠と捉えています。

おはからいにより、本日も激励の言葉を頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。

joeyrockさん、ありがとうございます。

予備知識の不足で回った際はそれほど感じなかったのですが、後でこの山全体が要塞であるのを知り、大変な手間暇をかけて築城したのを実感しております。急峻な崖などに際し、難攻不落を感じさせるものが十分ありました。但し、東街道からは結構外れた山の手側に築かれたものも感じます。紫桃氏によるとこの支城も存在したとのことで、これらをセットで考える必要がありそうです。

ご配慮により、本日も厚誼を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

暇人ityさん、ありがとうございます。

息子とともにityさんの記事を何度も読み直し、入念な計画を立てたつもりでしたが、神社近くの中腹に車を止めたことで、高舘城の威容が伝わり難いものとなったのが悔やまれます。
ityさんのように麓から登らないとこの城址はなかなか全容が掴めない。それだけこの城は規模が大きいと捉えています。今はリベンジも視野に入れ紫桃氏の『仙台領内古城・館』第4巻を読み直しております。

重ね重ね今回の高舘城址に関するブログ掲載に感想を申し上げます。お陰様で、今回も格別なる追い風を頂戴しました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

横町利郎様

熊野那智神社の起源は相当古い様ですね。
神社中腹に車を止めて、探訪は標高があるので
大変ですね。麓からの眺めながらの散策も疲れますね。
高舘城は険しい山頂に築き敵の侵入を
防いだのかもしれません。新しい発見があり
「東街道をゆく」の執筆が良い方向に進みますね。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

この日のメインが高舘城址探訪でした。駐車場もあり、今は神社まで車で行けるわけですが、結果的に中腹からのアプローチとなってしまい、山の険しさがいまいち伝わってきません。後で紫桃正隆氏著『仙台領内古城・館』第4巻を見たわけですが、順序を間違えたかな?下調べに不備があったかな?という無念も感じています。

木立の繁茂もありましたが、城の全容を把握しきれなかったので、或いはリベンジもあり得ると考えております。お陰様で、今回も格別なるエールを賜りました。おはからいに感謝しております。ありがとうございます。

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