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昭和6年(1931年)に阿部次郎が執筆した『丘の上から』という随筆を読んだ。この時の彼は東北帝国大学(現東北大学)の教授として脂の乗り切った48歳であった。

東京から仙台に移って8年。三十歳前後の際、彼は東京を去ることを問題にしたことがあったが、第二の故郷とも言える仙台に移ってからは新たな境地を啓いたのだろう。文中で彼は「真人間になるべき可能性は場所には左右されず、置かれた場所で最善を尽くすことにある。この心がけを持たない者はどこに行っても本来たどるべき道を見いだせないだろう」としている。

同時に彼は「私は隠棲者の幸福をうらやむことがしばしばあるが、今は事情がそれを許さない。また任地で最善を尽くそうという自らの意志もこれを許さない」と語っている。その言葉からは、教育者としてのあるべき理想を求めながらも、時にその重圧から逃れたいというジレンマにも苛まれていたのを感ずる。

思想に生きた若いころの彼を知る者にとって、若いころにはなかった人間らしさを感じるのである。実は彼は山形中学(現山形県立山形東高等学校)在学時、校長の方針に反発しストライキを起こして退学となっている。血気盛んだった彼もすっかり年を取り、立場も変わり、徐々に角が取れて丸くなってきた所以なのかも知れない。

1肖像

阿部次郎(1883~1959)略歴(以下はWikipedia版を編集)

1883年(明治16年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺に生まれる。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)から山形中学(現山形県立山形東高等学校)へ転校。校長の方針に反発し、ストライキを起こして退学。その後上京して京北中学校へ編入。
 
1901年(明治34年)、第一高等学校入学。同級生に鳩山秀夫、岩波茂雄、荻原井泉水、一級下に斎藤茂吉がいた。1907年(明治40年)、東京帝国大学に入学後哲学科を卒業。夏目漱石に師事、森田草平、小宮豊隆、和辻哲郎らと親交を深めた。
 
1914年(大正3年)に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て1922年(大正11年)、文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。
 
帰国後の1923年(大正12年)東北帝国大学(現東北大学)に新設の法文学部美学講座の初代教授に就任。以来23年間に渡って美学講座を担当。1941年(昭和16年)、法文学部長を経て1945年(昭和20年)、定年退官。1947年(昭和22年)帝国学士院会員となる。1954年(昭和29年)、財団法人阿部日本文化研究所の設立、理事長兼所長を務める。
 
大正末年から『改造』に連載した『徳川時代の藝術と社会』を著す。阿部はここで、歌舞伎、浮世絵といった徳川時代芸術を批判、抑圧された町人たちの文化と説いた。哲学者や夏目漱石門下の作家らとの交流や、山形で同郷の斎藤茂吉や土門拳との交流は有名。
 
1958年(昭和33年)脳軟化症のため東大附属病院に入院。1959年仙台市名誉市民の称号を贈られた同年、東大附属病院にて死去。(満76歳)現在、酒田市(旧・松山町)の生家は阿部記念館となっており、青葉区米ケ袋には阿部次郎記念館がある。

※これは東北帝国大学の教授時代の彼が住んだ官舎跡(住所は若林区土樋)である。

2阿部次郎旧居跡

実は7年半ほど前に、仙台時代の阿部次郎が散歩でたどったコースを調べたことがあった。これは米ケ袋には阿部次郎記念館の学芸員から聞いた話を基に描いた推定図である。大筋で間違っていないものと考えている。

3二千十二年推測のコース

これは随筆『丘の上から』の内容を基に描いた推定図(今昔マップの昭和初期の仙台地図より引用)である。彼はその日の気分やかけられる時間を考え、複数の散歩コースを有していたものと見られる。恐らく米ケ袋周回コースは時計回りと反時計回りがあったものと察している。

4二千二十年作成散歩ルート図

これは彼の家からさほど離れていない愛宕神社である。随筆の中で彼は「ここは近すぎて散歩コースとしては物足りない」という旨の言葉を残している。この神社は確かに彼の官舎からは近かったが、急な石段もあり、登りきるには結構息が切れたのでは?と捉えている。

5愛宕神社

これは鹿落坂の近くの東洋閣という老舗割烹である。この割烹は学者仲間との飲食や歓談の場としてよく使われたという。二階からの眺望は素晴らしく太平洋や牡鹿半島も見えたものと思われる。

6割烹東洋閣

米ケ袋にある阿部次郎記念館である。この記念館は1954年(昭和29年)に財団法人阿部日本文化研究所として建てられたものだが、往時71歳となっていた彼は体調が思わしくなく、実際に通える状況にはなかったという。記念館の中には東北帝国大学時代の彼の教授室が忠実に再現されている。(今でも見学可能)

7記念館

彼が好んで訪れたのが大年寺山であった。彼は自らをプチブルプチブルジュワ)と呼び、果たすべきことを語っている。彼は「プチブル(インテリ)層はプロレタリア層の洗礼を受け止めつつ、痴情や安易と決別し、広く人類をのびやかで幸福な境地に導く義務を有し、永久に自分を高い処に留めなければならない。」としている。往時の仙台の人口は今の五分の一以下の20万ほどであったというが、大年寺山から仙台市街を一望した彼はそのような思い(高所から人間世界を俯瞰する)に駆られていたのであろう。

※2018年の秋に訪れた黄檗宗大年寺山門

8大年寺山門2018

横町コメント
阿部次郎の散歩コースである大年寺山コースは東街道とも重なっているようで、興味深いものを感じます。偶然にも、幼稚園~小学校一年時の自分の住まいが、この散歩コースのすぐそばであったということから、彼を身近な人物として重ねる気が致します。『丘の上から』の本質は散歩云々というよりも、プチブル(インテリ層)としての自分の果たすべきことを表明した文章とも言えます。

研究者として脂の乗り切ったこのころの彼は、一日たりとも安閑として過ごしたということがなく、自分に厳しくという信念を片時も脳裏から離さなかったものと捉えています。自分はそんな彼を尊敬しています。従って彼から得ることはまだまだあると考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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9六百横町
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