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本日は久しぶりに吉成の臨済院跡に行った。この辺りは仙台でも最も標高の高い場所である。画像中央のやや左寄りの部分が市道(旧芋沢街道)側からの入口である。

1芋沢の登坂

標高200メートルともなるとご覧の通り。遠くは牡鹿半島(石巻方面)までをも遠望できる。

2牡鹿半島遠望

市道(旧芋沢街道)からの入口にはこのような立札が立っている。今でこそ周囲は住宅地となっているが、その昔は山奥と言っていいほどの寂しい場所であったという。

3入口

普通なら参道は登るパターンが多いが、ここは全く逆で弁天堂へ至る参道は下り坂となっている。

4見下ろす

Google3D立体画像(北側からのビュー)で臨済院と弁天堂の位置を確認して頂きたい。

5Google3D立体画像

この建物が弁天堂である。臨済院(以下Wikipediaより引用)
元禄14年(1701年)から明治時代まで、陸奥国宮城郡芋沢村吉成にあった黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院であった。山号は河北山。江戸時代には仙台の黄檗宗の有力寺院であったが、明治時代に廃寺になった。境内の建物としては弁財天堂だけが残り、「臨済院地内弁財天堂並びに堂地」の名称で仙台市の有形文化財に指定されている。

6弁天堂

臨済院の歴史(以下Wikipediaより引用)
黄檗宗(おうばくしゅう)に傾倒した仙台藩第4代藩主の伊達綱村が、元禄14年(1701年)に仙台の北西の外れにある角五郎丁に作らせたのが始まりである。綱村が筆をとって額の字を書き、仙台城内の万善堂にあった如意輪観音像を本尊とした。開山は、仙台近郊にある大年寺の第4世鳳山であった。鳳山は、大年寺の役僧を1か月交代で臨済院に派遣して管理した。寺には料具金13両と、人足扶持8人分が与えられた。

綱村の後を譲られた伊達吉村(仙台藩第5代藩主)は、正徳4年(1714年)2月9日に、栗原郡一迫畑岡村で4貫700文、志田郡下中野目村で5貫300文、合計10貫文(100石)の寺地を与え、かわりに料具金・人足扶持を停止した。正徳5年(1715年)9月に、吉村は臨済院を芋沢村の吉成(今回私が取材した場所)に移した。その頃は綱村も隠居として存命で、家臣をやって祝儀の品を届けさせた。

享保元年(1716年)10月には吉村が参詣して、鳳山が70歳になったことを賀す歌を詠んだ。鳳山は、その年の8月に五社明神社を、翌年3月には疱瘡神社を境内に建てた。他に、いつ作られたか不明な弁財天堂があった。臨済院は、安永3年(1774年)頃には塔頭を10、末寺を23持つ大寺院で、仙台藩の寺の序列で着座格とされていた。

7臨済院跡の標柱

臨済院跡地にはこのような石垣が残されている。本堂を始め、様々な建物が建っていた証である。臨済院は明治になって、寺領と藩の保護を失うと衰退し、明治20年(1887年)頃までにすべての堂宇を失い、廃寺になった。境内にあった弁財天堂だけが地元の人々に守られて残った。

昭和60年(1985年)に発掘調査が実施された。寺の東にあった山門跡、本堂跡と思われる石垣遺構、鐘楼の基壇、性格がはっきり確定できないが寺の石垣遺構、井戸跡が確認された。また、遺物としては江戸時代の陶磁器が多数出土した。

8石垣

臨済院にまつわる血生臭い話を二つ紹介したい。この古井戸の後をご覧頂きたい。郷土史家:三原良吉氏著昭和22年発行仙台郷土研究7によると、これは落ち武者ゆかりの井戸と思われる。

①弁天堂の建っているところは、その昔臨済院の境内であった。実はその臨済院跡は昔北條氏の亡命の地で’ヨシナカ’なる落ち武者がここに総勢19人で落ち延び、傷を洗ったのが敷地内にある井戸(昭和時代に訪れた三原氏は麦畑の中と言っているが、今の井戸は参道脇にあり真偽は定かでない…)であるという。彼らの亡命は十年後に露見するところとなり、50人ばかりの追っ手に取り囲まれ、一族はことごとく自刃して果てた。
W氏というヨシナカの家臣の末裔(三原氏によると、昭和期には臨済院跡の北側に居住していたとのこと)によると、それを家の氏神として祀ったという。井戸はどんな天気でも水量は変わらないという。(北條ヨシナカなる人物の出自や生涯については詳しくわかっていない)

②安永2年(1773年)1月21日に、寺内の木を盗伐しようとした樵夫(きこり)の頭と背を副寺(ふうす:禅宗における六知事の一つで金銭・穀物などの出入りをつかさどる役僧)の龍田が杵で打って殺した。行方不明になった樵夫を捜しに来た親戚に、龍田は樵夫を追い出したと答えたが、後に死体が見つかったため殺人事件になった。龍田には斬罪、住職には捜索に非協力的だったことにより蟄居の判決が下った。

9井戸?

横町コメント
過去の自分の記事(ヤフーブログ時代)を調べると吉成の臨済院に行ったのは三年前の2017年7月のことでした。その際は安永2年に起きた僧の殺人事件のことを書かせて頂き、数名のブロ友様から大きな反響がありました。今回はこれに落ち武者集団自刃があったこと(口伝えゆえ、飽くまで仮説の域を出ていませんが)をこれに付け加えさせて頂きます。現時点で落ち武者となった北條がいつ頃、どこから流れてきたのかは定かでありません。

これが本当だとすれば悲劇とも言えますが、多くの史跡の歴史をたどれば、このような血生臭いことが結構出てくるのではないでしょうか?現在、周囲は平和な住宅地となっていますが、人間はそれだけ過去に血生臭いことをやってきたという証でもあります。それだけに、先賢である郷土史家から受け継いだことは、隠さずに後世に語り継がねばならないと考えております。この地で自刃した北條筋の落ち武者に関して、新たなことがわかった暁にはブログに掲載させて頂きたい所存です。

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10六百横町
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