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 その時歴史が動いた 「伊達政宗 百万石への挑戦」 (2001年) 
リンク動画について
そろそろ自分が書きたいことが煮詰まってきた。それは自分のルーツが北上川という大河に深く関わってきたということである。但し、自分の先祖はけして勝ち組ではない。多くの家が栄枯盛衰を繰り返したという事実に背くことなく、我が先祖も生きるために、数限りないほどの苦渋を味わってきたのである。本日リンクしたNHKその時歴史が動いた「伊達政宗 百万石への挑戦」は自分のルーツが伊達政宗を抜きにしては語れないという確信に基づきリンクした次第である。 

※国土交通省(水管理・国土保全)HPより引用

上図をご覧頂いておわかりと思うが、中世から近代にかけて北上川は流路の変遷を繰り返してきた。度重なる水害を治水を以って制しようとしたのである。最初は伊達相模宗直が慶長10年(1605年)~慶長15年(1610年)に渡って行った工事(相模土手で北上川を浅水で締め切り米谷村に湾曲する工事)である。(上図右上参照)

伊達相模宗直の後に北上川改修工事に携わったのは伊達政宗が毛利浪人から召抱えた川村孫兵衛重吉である。重吉は元和2年(1616年)~寛永3年(1626年)にかけて北上川、迫川、江合川を合流して、鹿又~石巻への流路を改作した。(上図左下参照)祖父方親戚のAさんによると、先祖代々の言い伝えによると、私の先祖は川村孫兵衛重吉に仕え、北上川開削に携わったという。実はAさんの名前には孫兵衛重吉の一文字が用いられている。その事実がこの話を一層真実めいたものにしていると私は捉えているのである。下図の右下の人物が川村孫兵衛重吉である。

それから二百数十年後、ルーツ(6代祖父~5祖父の代の頃)は牡鹿原(現石巻市大街道)の開拓事業(戊辰戦争敗北に伴う石高半減に対しての士族授産)に携わり、功労の恩賞として広い土地を得たとのことである。私のルーツが入る前の牡鹿原は広大な葦原が広がる湿地帯であった。
牡鹿原開拓(1880年~)の場長は仙台藩士・細谷十太夫直英である。
(1839~1907、戊辰戦争において仙台藩の偵察方として、行商人、土工職人、旅籠屋の下男、料理屋番頭など様々な姿に変装しながら、諸藩の情報収集に当たった。諸国のヤクザの親分衆とも交流を持つ)
曽祖父(3代前)或いは高祖父(4代前)は恐らくこの人物に仕えたはずである。

明治時代初期の大街道(牡鹿原)開墾地絵図をご覧願いたい。自分の先祖はここで血の滲む思いをして耐え忍んだに違いない。そうして19世紀末に我が祖父がO家の次男として生まれるに至った。祖父はやがて養子として石巻の横町(現千石町)に住まい、祖母を嫁に迎えた。

祖父の養母は養蚕業を営んだこともあったが、祖父はここで運送業を営んだ。最初の頃は、かつての水運で築いた勢いもあったのだろうが、時代の変遷に従い祖父は商売換えをして菓子店を営んだ。そうして我が父が生また。

ミック挨拶
改めて、思うのは自分の祖父方ルーツは深く北上川に携わったということです。但し名字から言って、伊達に仕える前は葛西氏に仕えたと察しております。生き延びる為には例え不本意であっても二君に仕える。自分のルーツはこのような葛藤を経て、苦難の末に血を後世に残したと推察しています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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