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去る5月13日(水)に訪問した岩沼市原遺跡について原遺跡は2018年の秋に第3次発掘調査が行われたが、10月27日と28日には一般公開されている。動画はその時に撮影されたものと見られる。現在はJR常磐線の鉄道の敷地や農地として使われているため、発掘された場所は一部と見られる。

 宮城県岩沼市 原遺跡 一般公開 


これは私が今年の5月13日に訪れた時の原遺跡(南側から撮影)だが、第3次発掘調査も終わり現在は水田として使われていた。田植えが終わったばかりの水田が5月の強い日差しに照らされ大変眩しい。まるで映画のロケ地のような日光の量であった。

2今の原遺跡

原遺跡について再度説明したい。
※以下朝日新聞デジタルより引用
宮城県岩沼市南西部・玉崎地区の原遺跡で、縦約20メートル、横7メートルの掘立(ほったて)柱建物の跡が見つかった。8世紀前半のものとみられ、律令国家時代に朝廷の役人が馬を乗り換えた「駅家(うまや)」や、国境を守る「関所」だった可能性が高い。

10世紀に編まれた「延喜式」には全国400カ所の駅家が記され、その中に東北の「玉前駅家(たまさきのうまや)」がある。多賀城跡で出土した9世紀の木簡には「玉前」の関所を示す表記もあり、岩沼市玉崎地区にあったのではと考えられてきた。


岩沼市教育委員会は2年前の1次調査で柱穴跡の一部を発掘。2018年5月からの3次調査で建物の全体がわかった。縦11本、横4本の柱穴がある建物2棟分の跡で、ほぼ重なっており、一度建て替えられたらしい。南北を軸とした長方形はこの時期の公的施設の特徴。前後の時期とみられる竪穴建物跡も複数見つかり、駅家に携わった役人らの住居だった可能性があるという。


3一般公開は18年10月27日、28日

発掘は遺跡の一部とは言え、結構広範囲に渡っているようだ。

4原遺跡その2

岩沼市教育委員会は発掘に先立って事前調査(幅2メートルでの溝状試掘)を行ったようだ。これはドローンから撮影した画像である。(北側から撮影)

5教育委員会動画より

空撮ではないが、私が5月13日に撮影した画像(北側から撮影)である。線路から左のセクションも原遺跡となっている。

綱渡鳥@目指せ学芸員様のブログhttps://note.com/tunawataridori/n/n52866675d331によると、第1次調査は平成2年度に圃場整備という水田の改修工事に伴うもので、わずか2mの排水路予定地のみの発掘ながら、一辺が1mの幅を持つ柱穴で構成される大規模な建物跡や円面硯が出土するなど大きな成果があったとされ、更に平成29年度に実施された第2次調査でも同様に大型の柱穴が見つかるとともに、建物以前に材木塀があったことも確認されたという。

6北側より見た原遺跡

郷土史家の菅野正道氏が推定した東街道(東山道とも)を御覧願いたい。原遺跡(玉前駅家)は阿武隈川からの水路と分かれ道が交わる要衝であった。軍事においては大軍が通れなければ用をなさないので、菅野氏の説は正しいのかも知れない。(旧道である内陸ルートの道幅はかなり狭い)

7つのルートの分かれ道

横町コメント
みちのくにおいて陸奥国府である多賀城が敷設されたのは神亀元年(724年)のことでした。それとほぼ同じ時期にこのような大規模な柵(関所)が築かれたことになります。玉崎柵(駅家)はそれまでベールに包まれていただけにロマンを感じます。

この柵は中央(往時は畿内)から多賀城に至る中継地点としても使われたことでしょう。然らば東北における様々な歴史に、この柵がどう関わったのか興味は尽きません。今回は東街道を語る上では避けて通れない地点と考え掲載した次第です。

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8六百横町
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コメント

こんばんは

遺跡の発掘は歴史を知る上で重用
ですね。
それとともに保存することも後世に
伝えるために重用。
東北の歴史、参考になりました。
ありがとうございました。

URL | ichan ID:-

ichanさん、ありがとうございます。

今、執筆(連載)中の「東街道をゆく」を描くに欠かせないスポットが東街道の要衝に位置する玉前駅家ですが、平成28年からの三期に渡る調査で、この原遺跡と玉前駅家(玉前柵とも)が合致する可能性が一層高まった気が致します。それまで朧に見えていたものが、実像に近くなったことに胸が高鳴るものを重ねます。

おはからいにより、本日もお励ましを頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。コメントを頂きありがとうございます。

お早うございます、

遺跡の発掘調査はかなり広範囲で行われたのですね、
調査が終われば埋め戻されて水田でしたか、
早くも田植えも終わっていますね、
新たに色んな発見で興味が更に深まりました、

URL | 雲MARU ID:-

雲MARUさん、ありがとうございます。

玉前柵と原遺跡は同一と考えていいのではないのでしょうか?ちなみにこの道は中路に相当し馬が常時10頭備えられていたとされます。どんな人物がこの柵にどう関わったのか?興味の尽きないものを感じます。この動画を見て、自分としては執筆の時は熟したと捉えています。然らば5月13日(水)の取材のもたらした意義は大変大きいと考えています。

お陰様で、今回も格別なる追い風を頂戴しました。おはからいに感謝しております。コメントを頂きありがとうございます。

多賀城に至る中継地点としての柵、興味深いですね…。東街道との関連についての解明も期待しております…。

URL | boubou ID:-

boubouさん、ありがとうございます。

解明は学者や教育委員会に委ねるしかございませんが、なるべく多くの文献に触れ偏らない視点で東街道を捉えたいと考えています。去る5月13日は数十箇所に及ぶ地点を取材したわけですが、その中で幹と枝葉を確と見極めなければなりません。この玉前柵は間違いなく幹と認識し、YOU TUBEを探し、この動画を探り当てました。

後は自分の考証を加えながら執筆を進めたいと考えています。お陰様で、本日もお励ましを頂戴しました。おはからいに感謝しております。コメントを頂きありがとうございます。

岩沼市原遺跡発掘調査も一般公開、調査が終わると
水田に利用され、畦道を挟んで両側の田んぼ
田植えも終わり順調に育つ様子がみてとれます。
秋には稲穂も実って美味しいお米が収穫間違いなしです。
五月の風と陽を受けて田園地帯と化して素晴らしい光景ですね。
発掘調査によって当時の重要な文献を得て
執筆も進んでいきますね。
ご活躍を祈ります。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

ここに大規模な官衙があったのは間違いないようです。水路と陸路の要衝に当たるセクションで、東街道を語る上で避けて通れないと考え、少しだけ対象地区を南に戻しました。(原遺跡は先に紹介した八声の橋の碑や東平王塚古墳より南に位置します)

岩沼地区の取材に伴う執筆では、飛ばしていい部分と飛ばせない部分の選り分けに悩んでいましたが、仙台市図書館の書庫が一昨日再オープンに至り、参考文献である「岩沼市史古代・中世編」が借りられたので、今週末には精査に集中したいと考えております。

今は長閑な水田ですが、中世でここでどんなドラマが展開されたのか?迫りたい気が致します。本日も格別なるお励ましを頂戴しました。ご配慮に感謝申し上げます。コメントを頂きありがとうございます。

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