fc2ブログ
 新選組誕生 幕末に青春を掛けた二人の志士
NHKの歴史番組「その時歴史が動いた」を私は高く評価している。それはたった45分の視聴で、自分の知りたい分野について粗筋を知ることが出来るからである。本日新撰組を取り上げた理由だが、それは赤穂浪士や真田雪村などと並んで、我が国で人気の高い志士だからである。大義に生き、潔く散る。これは現代人の我々にも、強く心に訴えるものがある。また彼らの多くは農民出身である。幕末という動乱の世に生まれたから、こうした身分制度を越えたことが在りえたわけだが、メンバー一人一人に対して、大いなるドリームを感じるのである。
今回の登場人物二人を紹介したい。

清河八郎(1830~1863)
以下朝日日本歴史人物事典より引用
出羽国清川村(現庄内町清川)の酒屋の長男として生まれる。18歳の時に家出して江戸で学問を学び、昌平黌(昌平坂学問所)に入学。清河八郎と改名し、私塾を開く傍ら、北辰一刀流も修めた。桜田門外の変をきっかけに尊皇攘夷運動に傾倒。同志と「虎尾の会」を結成し、全国の尊攘派志士と交わった。1862年、上洛する将軍警護を名目に浪士隊編成を幕府に認めさせ、上洛後に浪士隊を尊皇攘夷の急先鋒へと転回させた。これに反発して浪士組を離脱した者たち(近藤勇、土方歳三、沖田総司ら)が後に新選組を結成した。幕府に危険視され、634月、江戸・麻布で暗殺された。

右が清河八郎、左が近藤勇である。


近藤勇(1834~1868)
以下朝日日本歴史人物事典より引用
新選組局長。武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水町)農民のとして生まれる。天然理心流3世近藤周助に望まれ4世を襲名するがそれに先立ち周助の実家島崎の養子となり近藤勇藤原昌宜と称した。文久3(1863)28日清河八郎ら上洛浪士組(将軍上洛の列外警護として幕府が募った)では先番宿割役を務め一時は土方歳三沖田総司らが属す三番組の小頭を任じた。清河らの帰府に従わず京都に残留して新選組母胎の局長となる。元治(1864)6月、田屋に尊攘派志士を襲撃殺傷した事件(池田屋騒動で勇名を馳せる。慶応(1865)114日長州訊問使永井主水正尚志に随行。伊東甲子太郎武田観柳斎尾形俊太郎と共に広島へ出立。長州藩宍戸備後を国泰寺で訊問。同3610日近藤土方沖田ら新選組隊士105人が幕府の召しかかえとなる。

同年107日土佐陸援隊に潜入させた村山謙吉から1015日西軍の武力討幕蜂起の諜報を得て京都守護職に報じる同年1115(1210)坂本竜馬中岡慎太郎らが襲撃され容疑を受けるとそれを新選組から離脱した甲子太郎の密告によるものと判断3日後七条油小路において甲子太郎藤堂平助毛内有之進服部武雄らを要撃した。同年1218日伏見街道墨染辺りで篠原泰之進と阿部十郎に狙撃され右肩に銃創を負う。鳥羽・伏見の戦を経て江戸に引き揚げ後甲陽鎮撫隊を組織するも甲州勝沼で敗走。下総流山で官軍に投降。明治(1868)4板橋にて斬首。

今回のゲストは作家の童門冬二氏(1927~)である。

目黒区役所係員から、東京都立大学理学部事務長、広報室課長、企画関係部長、知事秘書、広報室長、企画調整局長、政策室長を歴任した後、1979年に退職。
在職中には第43回芥川賞候補に選出された事もあったが、作家活動に専念したのは、退職後の51歳のときの事である。
以来三十数年間、毎月1冊という怒涛のペースで執筆を続け、『上杉鷹山』『石田三成』本間さまの経済再生の法則』『最上川流域に庄内米と大名をしのぐ日本海文化』 など数々のヒット作品を生み出してきた。
著書には、歴史小説や歴史を題材にした組織論などが多くあるが、彼が歴史小説に目覚めたのは小学生の頃、学校で教わった歴史がきっかけだった。NHK歴史番組「その時歴史がうごいた」などにゲストとして出演。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
感想
清河八郎は山形の庄内出身の人物で、かなり前に生家の近くの記念館に行ったことがございます。その時はさほど興味はなかったのですが、幕末において回天(世の中をひっくり返すこと)を意識した魁的人物と受け止めております。番組の途中にこのような字幕が出て参ります。

清河八郎は文武に優れた郷士であり、近藤勇から見れば「才能」を感じる人物だったことでしょう。これに対して近藤は後に主君となる徳川14代将軍・家茂への忠誠を「誠実」という言葉で表しています。もともと農民の出であった近藤は学問では清河にかなわなかったわけですが、「誠実なら俺のほうが上だ」という自負心があったと受け止めております。

上洛後の浪士隊234人を尊皇攘夷の急先鋒へと転回させた際、13人(後に新撰組結成に至る)は騙されたと知り激怒した。然らば、残りの221人以上は清河の思惑に従った形となりました。否、従ったというよりも時代の流れに乗り遅れまいとして、清河の尊王攘夷思想に惹かれたのかも知れません。自分は、それだけ清河にはカリスマ性があったと受け止めております。但し、彼は幕府から目を付けられてしまい。凶刃に倒れることになります。

奇遇ですが、近藤勇も清河八郎も三十代半ばを待つことなく亡くなっています。近藤勇の最後も壮絶ですが、夜道で襲われた清河八郎も壮絶な横死でした。思想は違っても、お互い熱い意志を持って幕末を生きた二人の志士の生き様に改めて、心を打たれた気が致します。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)