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はしがき

本日は私が生まれ育った石巻のことについて述べたい。石巻は港町でありよく進取の気風にあふれた町と言われるが、これは非常に的を得た表現である。藩政時代は藩主が住む仙台と15里(約60キロ)も離れていて、監視の目もさほど届かなかったことだろう。もちろん目付役の侍も居たわけだが、職業の構成の大部分が商人や職人、漁民の町だったので多少のことには目を瞑っていたことだろう。藩政時代に培われたこのような気質が、その後の自由闊達な石巻人の気風を決める一因となったのではないだろうか?


1、港町気質

船乗りに関しては、昔から板子一枚下は地獄の世界と言われてきたが、気が荒くなるのは当然であり、仕事柄厚顔無恥な輩も多かった。船乗りの世界は儒教(朱子学)と言うイデオロギーで固められた侍社会の縦の構造とは全く異なり、自己主張をしなければまともに生きて行けないのである。欧米社会では自己主張も実力のうちという風潮があるが、つい最近まで石巻の庶民にもそのような気風が漂っていた。


命を常に張らねばならない船乗りは仕事がきついこともあり、必然的に飲む、打つ、買うが欠かせなかった。従って石巻には赤線があり、藩も特例として認めていた。これもあってか往時の石巻では性犯罪がさほど起こらなかったという。


歓楽街が出来れば、利権をもくろみ、自ずと多くの老若男女が集まってくる。海運によってもたらされた富が活気を生み、経済の大対流が起き、これによって人や物が更に集まってゆく。これが俗に言う「連鎖の法則」である。藩政時代の石巻では何度も起きる飢饉や疫病、大火がこれにブレーキを掛けるわけだが、その度に石巻は不死鳥のように立ち直って行った。そのような試練が石巻人にレジリエンスとバイタリティーをもたらしていったのである。


1明治時代


2、宗教や価値観の多様性

石巻の寺の宗派は非常に多いという。石巻には浄土宗や浄土真宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、天台宗もあるが、その多様性は全国的にもあまり例がないと言われている。もちろんキリシタンも居た。こういうごちゃごちゃとした町は必然的に争いごとが多くなる。これを未然に回避するために互いに競合せず、来るもの拒まずという精神が欠かせないものとなるわけだが、それがその後の石巻における宗教や仏教の宗派の多様性に繋がっていったのかもしれない。


これは多様な場所から移り住んだ人が多いのがその理由と思われる。その中には「訳あり」の人も居たことだろう。但し流れ者だけでなく、中にはお尋ね者も居たのである。そう言えば幕末の近く、新潟の新発田藩で主君の奥方との浮気を咎められ、主君を殺害した侍が追っ手を逃れるために仏門に入り、牡鹿半島(現石巻)の先端に近い寺で、数十年も潜伏していた。この話は以前の記事で紹介済みだが、すぐ近くに半島を有するだけにそれだけ訳ありの人物が潜伏しやすい土地柄であったのは否めない。ちなみにその僧が隠れていた寺は曹洞宗の某寺であった。


3、独特の言語とイントネーション

次に石巻弁のイントネーションの話をしたい。石巻から移住を経験していない五十代後半から上の石巻人の話し言葉には、今でも独特のイントネーションが存在する。石巻言葉ともいい、これは北上川流域の大崎・葛西地方にも見られるものだが、石巻は港町だったゆえに、江戸や上方の言葉の影響を受けたという説がある。


自分の幼少時を振り返れば明らかに仙台とは違ったイントネーションがあったが、石巻の言葉は概して早口で「俺」のことを「おい」というなど、独自性の強いものであった自分の小学生時代を思い起こせば、クラスメイトとの会話で、きっぷがいい江戸っ子的な話しぶりが特に印象に残っている。石巻弁を話している同士をよそに居住している人見れば、普通に話していても喧嘩腰に聞こえるのかも知れない。これは気後れすることは自己主張がないと見なされ、相手からなめられかねないという懸念が湧いてくるという理由があると私は考えている。


仙台では「しゃべる」というが、石巻では「語る」という。「なに語ってるんだ!」「なにすや!」(なんだと!)という言葉は、宮城県を含めて他の地域にはなく、他方の人からは攻撃的に聞こえるとも言われる。今でも大崎・葛西地方の年輩のかたにこのような特徴を持った言葉使いが見られるが、私は大河北上川河口にできた港町の成り立ち(伊達政宗公の構想による人工都市と言っても言い過ぎでない)こそが、その大きな一因となったと考えている。


葛西は大身(30万石の大名)でありながら、大きな権力と抗い結果的に滅ぼされることとなったが、かつて葛西に関わった末裔たちは伊達の麾下に属しながら、いつか見ていろ!という気概に溢れ、自らの敷地内にサイカチの木(葛西の家紋)を植え、伊達に復讐を誓ったという。祖父方ルーツをたどれば、葛西家臣と繋がる自分としては、そんな反骨の血が体内に脈々と流れているような気になってくるのである。憂れき目を見た葛西だが、私はその反骨精神こそが石巻弁のとげとげしさに現れているように思えてならないのである。


※昭和50年代の生家・横町

3旧横町の生家前(昭和58年撮影・後世に残すグラビア石巻より引用)


横町コメント

今でも自分の体内に、石巻人特有の気質を感じるのは多々あります。これは仙台生え抜きの人(義理にこだわる指向)とは明らかに違うものがあるということを意味します。時に石巻人は一つのことに熱しやすく、口やかましいこともありますが、からっとしていて冷めるのも早く、ネガティブなものに関してはねちねちすることを忌み嫌い、その場限りのことで済ませたいと思うことが多いのです。或る意味でクールと言えるのかも知れませんが、これは多種多様な人間と渡り合うための知恵と感じています。


「三つ子の魂百まで」と申しますが、私が幼少期に培った石巻人気質は死ぬまで失せることはないことでしょう。悪く言えば個人主義と言われかねない石巻人気質ですが、東北人に共通する人情は持ち合わせています。礼節は人によりけりですが、傾向としては漁師は至ってフランクであり、人と接する立場の人は律儀でもあります。私はこの律儀さをこの地が旧葛西領であったことを引用し、そういう方々を「葛西の律義者」と呼んでいます。もちろん私自身もその例外ではございません。(笑)


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4六百横町


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