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  [美しき日本] 岐阜 佐藤一斎  


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幕末の偉大な思想家である佐藤一斎のプロフィールである。私は去る2018年4月28日、自らのブログに「偉大な思想家・佐藤一斎への畏敬」と題した記事を書いた。その時は代表的著作である『言志四録』について触れた。


その中で元首相である小泉純一郎が、2001年の国会審議で引用して有名となったのが「少くして学べば壮にして為す有り……老いて学べば死して朽ちず」(意味:若いころから学べば、壮年になって大きなことをなし遂げることができる。壮年になってから学べば、年老いても衰えることなく活発に生きることができる。年老いてから学べば、死んだとしても不朽の評価が得られる)という文言である。


まさに生涯学習の大切さを訴えているわけだが、この人生観は私も深くシンパシーを抱くものである。一斎は厳格でありながら、広角的視点で、時に柔軟に、時に合理性に基づき、幕府に使える侍らに官職たる者が目指すべき道を講じたのである。


1一斎肖像画

次に佐藤一斎の略歴をご覧頂きたい。

・1772年(安永元年)江戸浜町の美濃岩村藩邸に生まれる。(父は美濃岩村藩の家老・佐藤信由)

・若年時は拳法、柔術に優れ血気盛んなあまり、夜間酒に酔い、親友とともに道行く者を倒して歩いたという品行不良もあったと言われる。

・その後それまでの品行を悔悟し、志を立てて学問に専念する。

・見る見る頭角を現し19歳で岩村藩主・松平能登守乗保の近侍として正式な士籍を得る。

・翌年或る出来事に遭遇し、職を免ぜられ、自ら願い出て士籍を脱する。

・浪士となった一斎は江戸を出て大阪懐徳堂の儒者である中井竹山(1730~1804)に師事する。

・半年後、懐徳堂が火災で焼失し、再び江戸に戻り林家(官学として認められていた朱子学の宗家)の門に入る。

・林述斎(1768~1841、一斎とは義兄弟)を助けながら林家と昌平坂学問所を盛り立てる。

・1805年頃、34歳で林家の塾長となる。

・42歳(1813年頃)で代表的著物「言志四録」を書き始める。

・55歳で岩村藩の老臣の列に加えられる。

・60歳頃から「重職心得箇条」を書き始める。

・70歳で長年連れ添った林述斎と死別する。

・83歳で「言志四録」を書き終える。

・70歳から18年もの長い間、精力的にその職を勤め上げ1859年(安政6年)、昌平坂の官舎で88歳の生涯を閉じる。門下には佐久間象山山田方谷、渡辺崋山などがいる。


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前置きはこれくらいにして、本日は私が以前から気になっていた江戸時代後期の佐藤一斎の著物『重職心得箇条』を紹介したい。参考にした著物は安岡正篤著『佐藤一斎重職心得箇条」を読む』である。幕末の天保・弘化(1831~1848)の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記したものであり、十七箇条に渡っている。文字通り原文は箇条で記されているが、ややわかり難いところがある。これを現代向きにアレンジしたものを記したい。


①重職者は軽々しくあってはならない。挙動言語には慎重を期すべし。重んずるべき理念は主に三つあるがこれには順序がある。第一に「深沈厚重」(物事に動じないこと)、第二に「磊落豪雄」(型にはまらず、度量が大きい)第三に「聡明才弁」(頭脳明晰で弁が立つこと)である。この順序こそが大切(けして順不同でない)


②重職者の心得として、様々な立場の人物に十分議論をさせ、その議論を公正に採決する必要がある。但し些細なことまでは口出しせず、またあら捜しをせずに鷹揚に振舞う必要がある。例え嫌いな人間でも長所を認めたからには、その才能を活用するように努める。


③家(藩とも)に伝わる基本方針を失ってはならないが、一方でしきたりや慣わしは時世に応じて見直さねばならない。


④先ずは自案をしっかりと持つ。その上で因習や慣わしを精査する必要がある。(アイデンティティの重要性)


⑤何事もタイミングが肝要である。好機はあらかじめ予想できるものが多い。これを確と心得るべし。


⑥公平性を失うのは良くない。物事の全体像を捉え、判断は中庸の心を持って当たるのがよい。


⑦部下に対して恣意性(自分勝手な思考)に走ってはならない。厳しく部下の落ち度を追求するのは威厳とは別のものであり、器量が小さい証である。


⑧重職者は「忙しい」という言葉(愚痴とも)を口に出してはならない。こまごまとしたことは部下に任せないと、自分がそれをやることになり、結果的に忙しくなってしまうという道理を確と心得るべし。


⑨刑賞与奪(人を使うに当たって罰したり、誉めたり、与えたり、奪ったりすること:今で言えば人事権)は元々君主のものだが、大臣(重職者)はこれを代行する立場でもある。その際は過ちのないようにしなければならない。


⑩政治においては大小、軽重の区別を誤ってはならない。また緩急、先後の順を誤ってもならない。時に長期に渡って見据えねばならないこともあるが成算を立てた上で取り組むこと。


⑪何事も寛大な態度で振舞うこと。こせこせした振る舞いをすれば却って部下の能力を損なうことになる。


⑫重職者たる者は信念を持つことが大切だが、時に豹変しなければならないこともあり得る。このあたりは固執せず、臨機応変に振舞う必要がある。


政治においては抑えるべきことは抑え、揚げるべきことは揚げるように取り計らうこと。組織の上下関係も見据えて、部下からの信義を失うことなくこれを進めること。


⑭政治は作り事ではない。自然の流れを重んずること。反省すべきところは反省し、物事を複雑化しないこと。


⑮組織の中では基本的に人を信ずること。猜疑心を持てば人心に悪い癖がつく。これが組織に悪い影響を及ぼす。性善説が基本である。


⑯物事を秘密にしないこと。但し秘密にしなければならないこともある。重職者はこれを弁えねばならない。


⑰重職者が組織に就任した際は明るく振る舞い、部下の士気を上げるように努めること。財政がひっ迫しているからと言って言葉や表情に出さないこと。


2重職心得箇条

横町コメント

如何でしょうか?組織を束ねる極意は昔も今もさほど変わらないのではないでしょうか?佐藤一斎の『重職心得箇条』は現代社会でも十分通用するものを感じます。17条の中では第1条の「深沈厚重」、「磊落豪雄」、「聡明才弁」の順序は順不同でないというフレーズに対して、特に共感を抱きました。


才能があって多弁な人材は世に掃いて捨てるほどいますが、一斎は才能を謙譲という衣で隠し、慎重に、且つ鷹揚に振舞える人物こそが重職者(今でいう幹部、管理職)に相応しいとしているのです。西洋の諺にもあるように「雄弁はけして金でない」と言えるのでないでしょうか?


近代に入った我が国が一時軍国主義に走った際、このような思想は古いという一言で片づけられたことがあったようですが、平成の世となり、小泉純一郎元首相の例の国会での文言で儒者・佐藤一斎は再び脚光を浴びた感があります。


実は一斎は愛日楼(あいじつろう)という号を持っていましたが、これには亡くなるまで時間を大切にしたという意味が込められているということです。自分に厳しく、人には時に優しく、時に厳しくといった緩急をもって接した思想家でした。


言志四録から引用した言志四録手抄101箇条は西郷が死ぬまで肌身離さず身につけていたものとされます。彼の弟子である佐久間象山は吉田松陰の師となり、幕末の思想(陽明学)に大きな影響を与えた儒者としても知られています。


拙ブログでは、これを機会に日本の儒者たちを更に紹介して参りたいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。

  

3六百横町
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