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本日は昨日訪れた岩沼市長谷地区の長谷城長谷一族について述べたい。参考にした資料は郷土史家故紫桃正隆著『仙台領内古城・館 第四巻』と長谷家百々(どうどう)地区調査チーム制作『長谷氏と古城』である。武石氏と亘理氏はけして別系の家譜ではない。


千葉常胤という武将が奥州伏原征伐で源頼朝から恩賞として広い領地を得て、息子たちに分け与えた。武石氏の祖となった武石胤盛は千葉常胤の三男であった。その流れをくむのが武石氏であり後の亘理氏である。亘理氏第12代の元胤の三男である胤重こそが長谷家の祖となった人物である。


1武石・亘理氏家系図

・亘理町史によると、亘理氏第14代(別な資料によると第12代)の亘理元胤の三男である胤重が初代長谷当主である。(亘理氏嫡流からは分流となる)

・長谷氏がこの地に住んだのは1505年ごろ~1591年までの86年間(初代~三代)とされる。

・武石氏は伊達と相馬という二大勢力に挟まれる形で存在し、1520年頃伊達の麾下となったが、独立性を保っており、どっちつかずの状態にあった。

・天文の乱(1542~1548 伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱 )の頃は相馬側についていたため、伊達氏との争いが激化した。

・天文の乱に巻き込まれた亘理氏第17代の亘理綱宗は天文12年(1543年)に懸田の役で戦死し、その弟の元宗が後を継いだ。

・亘理元宗(第18代)は伊達政宗に従い南奥州制覇などで功を挙げて恩賞として宮城県南部に領地を獲得。元宗の跡を継いだ重宗が百々城(宮城県北部の田尻町)に移った。この時家臣であった長谷修理影重も従って沼部村下館に移った。

・長谷修理影重はその後、長谷三郎左衛門と称し、涌谷伊達氏の筆頭家老を務めた。


※昨日お会いした第17代当主は現在先祖伝来の土地にお住まいであるが、一族が主君に添い宮城県北部に移り住んだ後、岩沼の長谷家の土地を誰がどう維持したかのいきさつについてはわかっていない。また第15代以降については個人情報を配慮して、ご尊名の公表を控えさせて頂いた。


3長谷家家譜

南西部から長谷城を望んでみた。手前の道路は県道39号線である。ご主人によると昔は県道の反対側までが領地であったという。微高地の左の端がえぐられているが、付近は昭和の初めの頃から大規模な土木工事(土を取る工事)が行われ、残念ながら往時の面影とは大きく異なったものになっているとのことである。ご主人のお話によると左の端は断崖と外堀が巡らされ、そう簡単に攻略できない地形になっていたはずと言う。

4長谷城遠景

未舗装の道を通って南側に回り込んだ。資料によるとこの辺りに長谷氏の旧宅があったとされるが昭和の頃までらしい。(紫桃氏がこの地を取材に及んだ時期は、今から四十数年前の1970年代と推定)今は何もない丘の上にあるのは体育館である。規模として「仙台領古城書上」には長谷城として東西24間(約44メートル)、南北22間(約40メートル)となっている。

5南東側からの全景

東側に回り込んだところで除草作業をしているかたがおり、そのかたに聞いたところ、標柱の右の家がオーナーの長谷さん宅とのことであった。ご主人に名刺を渡し、取材への趣旨(歴史探訪と執筆)を申し出たところ、快くお受けいただいた。ご主人にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。尚、右側の家は越前商店で隣家である。

6標柱と隣家

Google3D立体画像で鳥瞰写真をご覧頂きたい。敷地北側と東側の土砂が相当えぐり取られているが、昭和初期に国道4号線を工事する際の盛り土に使われたらしい。蛭(ひる)と書かれたところが長谷氏宅である。大変興味深いのは以前訪れた東平王塚古墳(千貫神社の向かい側)と一本の道で繋がっており、目と鼻の先にあるということである。然らば長谷氏がこの地に着目する以前、様々な権力者がこの微高地に砦としての存在価値を抱いた可能性がある。

7長谷城Google3D立体画像

このスケッチはかなり精巧に描かれているようだが、郷土史家の紫桃正隆著『仙台領内古城・館』第4巻を基に加筆したように見受けられた。本丸、二の丸とも西に寄っていたようだ。堀が何重にも巡らされているが、標高のない平山城ゆえ、敵から簡単に攻略されないよう様々な工夫がな施されていたのだろう。

8長谷城址略図

隣家である越前商店の傍には今でも堀切の跡が確認できる。ご主人によると往時は10メートル近い深さの堀が周囲に張りめぐされていたとのことであった。城を構えた往時は、相馬につき伊達とは敵対関係にあったわけだが、長谷氏の警戒心の強さが窺える話である。

9堀切

横町コメント
かつての長谷氏の居城を訪れて感じたのは、戦国武将の生き残りの常套手段とも言える「長いものには巻かれろ」です。伊達と相馬という二大勢力に挟まれ、長谷氏は二者択一に迫られ、結果として伊達につくことで生き残りを図りました。実はこのような構図は結構多いのです。

具体的には2015年に取材した亘理の十文字氏や丸森小斎の佐藤為信、昨年取材した粟野氏もそうでした。相馬から伊達に寝返った武将の多くは、その後生き残り幕末まで家臣として仕えました。但し、これがスムーズに行かなかった武将(黒木氏や粟野氏など)は滅亡や没落などの憂き目に遭いました。古今東西、やはり大きな勢力と抗って生き残るのは至難の業と言えるのではないでしょうか?

ちなみに伊達と最後まで抗った相馬は、滅亡の危機に瀕しましたが豊臣秀吉の小田原攻めをきっかけに、伊達との闘争が預かりになり、家名を幕末まで残すに至りました。相馬は「東奥の君子国」(民俗学者・岩崎敏夫氏の命名)と言われますが、誠に天晴れと言うしかありません。

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10七百横町
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