fc2ブログ

まえがき

拙ブログでは過去に日本の儒者(儒学者)のことを数人取りあげた。三浦梅園、佐藤一斎、吉田松陰らである。今回は疋田啓佑著『儒者』を参考に、我が国の著名な儒者を紹介したい。そのために、新たにカテゴリーとして「日本の儒者の研究」を本日追加した次第である。儒者の名は「近世儒学の祖」と言われる藤原惺窩(ふじわらせいか)である。藤原惺窩(1561~1619)は日本で最初に朱子学を学び、武将たちに伝えた学者であった。我が国の儒学は朱子学陽明学、古学に分割されるが、これらの違いについて簡単に触れておきたい。


朱子学11世紀に南宋の哲学者朱熹が大成した「儒学」の一派で格物致知(物の道理を窮め知的判断を高め理想的な政治を行う) 理気二元論、そして「身分秩序」を重視した学問である。封建社会を支える学問として鎌倉期~江戸期に於いてイデオロギーとして用いられた経緯がある。朱子学には数派の枝別れが存在する。


これに対して陽明学朱子学と相反する学問で、明の王陽明(15~16世紀)祖となり、致良知・知行合一を説き、朱子学の主知主義に対して実践を重視した学問である。我が国の儒者では熊澤蕃山、中江藤樹、大塩平八郎らがこの系統である。 朱子学を批判する学問として幕府からは禁じられた。


古学は朱子学と陽明学を批判し孔子と孟子古来の教えに遡ろうとする思想(17世紀以降に発生)である。山鹿素行 、伊藤仁斎、荻生徂徠太宰春台らがこれに当たる。


藤原惺窩(1561~1619)
1蜷川親胤(式胤)模藤原惺窩像

藤原惺窩年表

・現兵庫県三木市に永禄4年(1561年)、藤原定家の家系に繋がる名門の家(定家は12代前に当たる)に生まれる。

・7歳から地元の寺(景雲寺)で読み書きに励む。聡明で早くから学才が響き渡る。

・16歳の時伯父の寿泉の後ろ盾で京都の相国寺に入門し、僧として歩み始める。

・父と兄が敵対していた武将・別所長治(織田信長に謀反を起こした武将)と戦い、殺される。

・逆境を克服するべく修行に明け暮れるものの、健康を害し有馬温泉で湯治する。

・大名・赤松広通の目に留まり、京都に遊ぶなどして親交を深める。その後は長く広通に仕える。

・21歳にして学才五山第一と称せられるほど名を高める。

・30歳の時、朝鮮から通信使が来て副使である金誠一(朱子学の大家・季退渓の三大弟子の一人)と出逢う。

・豊臣秀吉の養子・秀次が関白になると惺窩に声がかかるが、秀次に媚を売る僧たちに馴染めず肥前(佐賀県)の名護屋城に逃れる。(秀次からは逆恨みを買い、生命の危険さえ感じた)

・伯父の寿泉と縁を切って還俗し、儒学者として生きる道を選ぶ。

・36歳のとき儒学を学ぶため、鹿児島から中国を目指す船に乗り込むが、嵐に遭い難破。鬼界ヶ島に漂着。やむなく京都に戻る。

・京都で朝鮮の儒学者・姜沆(かんはん:季退渓の孫弟子)と出逢う。

・赤松広通のもとで姜沆と親交を深める。

・関ケ原の戦いの後、惺窩は家康に儒学を講じていたが、赤松広通が家康に抗った罪を問われ切腹に処せられる。これを機に惺窩は家康に近づくのを控え、愛弟子の林羅山を送り込む。林家は代々幕府の学問の責任的立場を務める家柄となる。

・53歳で中風のため半身不随の身となるが、屈することなくその後も大名たちに儒学を講じる。

・元和5年(1619年)59歳で没する。


藤原惺窩の思想の特徴

・日本で最初に朱子学を学び、伝えたのが惺窩である。

・朱子学以外の思想を排他するのでなく、日本古来の神道や陽明学も認めつつ朱子学との接点を掘り下げていった。

・著書に『寸鉄録』がある。これは論語や書経の言葉をわかり易く説き、上に立つ者の心構えを示したもので「君子は和して同ぜず」「三人行けば必ず我が師あり」(いずれも論語)や「罪の疑わしきはこれを軽くせよ。功績が疑わしい者は誉めよ」(書経)などを著す。

・著書の『大学要略』では「日用人論」(人にとって大切なのは儒教の表面でなく、行動を伴った人倫道徳こそが大切)を著し、実践に繋がる部分を重んじた。

・惺窩は「教養」という言葉をよく用いた。「教」とは人倫教育、「養」とは精神的経済的な養育を意図するもので、政治にはこの二つが欠かせないとした。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


横町コメント

徳川幕府は組織としての統制を朱子学に求めたわけですが、その過程を語るならば、創成者として藤原惺窩、後継者としての林羅山の存在が極めて大きかったと捉えています。「君子は和して同ぜず」は私の座右の銘でもございます。それだけに藤原惺窩の思想は着目するべきものを感じます。


その惺窩ですが、青年期に身内を殺されたり、中年期には仕えていた赤松広通が切腹させられるという不遇に遭遇しました。従って彼は悲運の人生を辿ったと言えないこともないのですが、不遇の中にありながら柔軟な姿勢で朱子学を講じ、これを単なる机上の理論とせず、実践を見越した学問とした人物でした。


先般のコロナの自粛に当たって、麻生大臣が触れたように、我が国は「民度が高い民族」とよく言われます。その民度とは一体どこから来たのか?その一つの答えが近世以降の儒教思想の浸透です。学校教育の道徳では儒教という言葉は使われませんが、我が国の道徳に多大な影響を与えたのが儒教です。


一部の組織などに使われる倫理教育の礎となるのが儒教思想(残りは神学や仏学)と捉えています。言うまでもありませんが、儒者とは儒教教育に携わった学者のことを指します。通算四人目の儒者の掲載を機に日本の複数の儒者について紹介して参りたいと考えています。本日も最後までご覧頂き、ありがとうございました。


ブログランキング・地域情報・東北地区に参加しています。宜しければクリックをお願い致します。

  

2六百横町
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)