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藩政時代の石巻港には多くの千石船が浮かんで盛況を呈していた。1689年に石巻を訪ねた松尾芭蕉は、奥の細道で石巻の往時の様を「数百の廻し船入江につどい、人家地を争いて、かまどの煙立つ続けたり」と綴っている。恐らく石巻を訪れた芭蕉の目の前には多くの千石船が忙しく往来していたのではないだろうか?その往時の千石船を偲ばせる想像図など、貴重な資料が掲載された歴史書を見つけた。図説「宮城県の歴史」(河出書房新社発行・責任編集者:渡辺信夫)である。

先ずは中世末における北上川の推定流路をご覧頂きたい。中世末期に於ける流路図は過去に二度ほど本ブログに掲載しているが、微妙に食い違いがある。理由としては往時の資料が乏しいだけでなく、大雨の度に河川が氾濫し、湿地帯と化した流域の特定が難しいことなどが考えられる。
※北上川中世末の流路推定図P177より引用

中世末期と近世(改修工事終了後)の大きな違いは
①和淵の辺りでの独流していた江合川を合流させたこと
②Y字状となった石巻河口への分岐を飯野川付近に変え、本流を東側に移したこと
などが挙げられる。
※北上川近世の流路図(P177より引用)

慶長5年(1600年)8月10日の「葛西・大崎船止日記」によると、後に港町石巻に属する「石巻」(北上川右岸河口近く)と「湊」(北上川右岸河口近く)の船着場の船の数はそれぞれ15艘で合計30艘の船の存在が記録されており、この時期に於いて石巻地区が既に船運の中心となっていたことが推定される。但し、中世末期の船の往来は石巻湾内のもので遠隔地を結ぶ海船の出入りはほとんどなかったと考えていいようだ。

この後、徳川家康が慶長8年(1603年)幕府を江戸に開いたことで江戸周辺の人口が増え、それとともに衣食住への需要が大きく増加した。伊達政宗の一大事業となった石巻開港は、正にこの追い風とも言える需要に乗ったものだった。伊達政宗は慶長初年に毛利氏の元家臣であった川村孫兵衛を家臣としてかかえた。これは土木技術者としての孫兵衛の高い技術力を評価しての登用だったと言われる。孫兵衛は幾度の困難にもめげず、ごの大事業を成し遂げた。そして元和6年(1620年)、その石巻港より江戸へ五百石の米が出荷された。これは仙台藩にとって非常に大きな意義のある第一歩であった。

さて、これが北上川河口(石巻)の河口の千石船の想像図(参考図版:天明3年(1783年)「仙台藩御用船絵馬」18世紀末のベザイ船様式、ばら下がりをつけた太い水押。オモテに方向安定用の弥帆を装備し、反りの少ない船首尾、簡素な垣立形式が特徴。胴の間にも垣立をつけ、荷を載せている。御用船としての使用期間は十年ほどの間。この絵馬では、船頭を含めて12名の乗り組みとなっている。

左側の船の容積は24反帆で千石積み級と推定される。10トンダンプカーだと15台分に相当する。規模による乗組員の割り振りは百石で一名ほどとされる。

河村瑞賢による東回り航路の開拓で、房総半島を迂回して江戸に直行するルートが拓かれた。(それまでは銚子から霞ヶ浦に入り、荷を積み替えるということをしていた)廻し船は沖合を航行し浦賀水道を横断して三浦半島、或いは伊豆半島に至り、江戸に向かったとされる。この新航路は「大廻り」とも言われている。

江戸中期の港町石巻には湊、本町、住吉の三箇所に藩の米蔵があり、湊御蔵は18棟で計5万俵、本町御蔵は9棟で計2万俵、住吉御蔵は18棟で計6万5千俵で合計13万5千俵の米を収納できたとされる。この他に南部藩、八戸藩の米蔵もあった。宝暦年間(1751年~1764年)には500艘を超える艜船(ひらたぶね)が上下していたとされる。

船を描いたと見られるポイントを航空写真に落としてみた。この辺りの右岸の川岸で自分は幼い頃遊んだことがある。また自分の生家は現石巻市千石町(旧称は横町)である。それだけに身近に感じられる千石船の想像図である。

ミック挨拶
自分のルーツに関することを書きたいという希望は随分前からくすぶっていました。但し、歴史ものを書くにはそれなりの資料を集めねばなりません。それだけに、ここに来てこの本に出遭ったのは大きな意義がございました。それは活字だけでなく、このようなスケッチが掲載されていたからです。この想像図によって、往時の千石船へのイメージが湧き、執筆に一歩近づいた気が致します。これを大きな追い風として、郷土史への研鑽、並びに文藝活動に励みたい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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