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前書き

盆前の或る日、相馬にお住いと思われるH様(初対面)から、拙ブログに書き込みを頂いた。その記事は5年前のもので「童生の戦と「相馬隆胤討ち死に」に関することである。URLはhttps://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-985.htmlである。戦国時代の伊達相馬の間で行われた戦ではあるが、刃をまみえた両軍の兵の数が非常に少ない戦ゆえ、知名度が低く、郷土史愛好家でさえも知らないかたが多い戦である。但し、合戦の規模とは裏腹に、幕末までけして和睦に至らなかった両家の相克にこの戦が及ぼした影響は極めて大きい。それはこの合戦で相馬第16代藩主、相馬義胤公の実弟の相馬隆胤という殿様が討ち死にしたからである。


中村城の城代でもあった相馬隆胤が討ち取られたことで、相馬の伊達に対する遺恨は更に増したと言える。相馬が生んだ民俗学者・岩崎敏夫氏によると昭和の頃ま、相馬の人には「仙台人は油断がならない。気が許せない。」という意識が多かれ少なかれ心の中にあったという。 かつて相馬郷土研究会に出席していた私だが、宮城県人という立場をして、この会の敷居の高さを感じた理由がこのへんにある気がしてならない。私が勝手に意識過剰に陥ったとも言われそうだが、研究会には錚々たる相馬の先賢が多数おり、とても私の出る幕ではなかった。


名君と言われた相馬第16代藩主、相馬義胤(1548~1635)は88歳という戦国武将としては稀なる長寿を全うして世を去ったが、その遺言により、遺骸は南相馬市小高区の同慶寺に甲冑を身にまとい、薙刀を持ち、宿敵伊達藩のある方角である北に向けて埋葬された。何が公をそうさせたのか?弟を殺害されたという伊達への遺恨が如何ほどのものであったのか?本日はH様から送られてきた資料を基に戦国末期に行われた童生渕の戦」を深く掘り下げて行きたい。


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先ずはH様からのコメントを紹介したい。

地元を調べていくうちにこちら(横町のブログ)に辿り着きました。5年後のコメント書き込みご容赦ください。私の知っている限りですが(地元石上地区の昔からいる人なら知っているよと言われた事)寺島勘六という名の小姓(齢1516?)が主の首を持って自害した後の話です。
忠義に感動した相馬の殿様が、その一族に澪標の紋を与え、厚く遇したと伝わっています。
それから時はたち、明治?か時代はよく聞かなかったのですが、その家の家屋を建て替える際に出た廃材を薪にすべく割っていた所、細工をしていた柱があり、その中には刃がボロボロになった刀が一本見つかったと言うのです
これが主君の首を落とした刀なのだろうかと、今でもその家で供養していると聞きました。石上地区で毎年3月の末頃に鹿島神社という所でお祭りをするのですが、その鹿島神社社内に、古戦場での話を絵にして飾っています。石上地区に知り合いが居ます。
中略
十年以上前に鹿島神社の宮司がその地区に残っている伝承(昔話)を本にしており、石上地区各家庭に配ってあったのを知人宅に行った時に見せてもらった所、古戦場の話が細かく書かれていました。
後略


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私が古戦場の童生渕と黒木の首塚に足を運んだのは2015年初夏のことであった。別々の日の訪問であったが、特に黒木の首塚のある場所はわかり難く、探し当てるのに苦労した。それだけに、相馬在住のH様からコンタクトを頂いた時は大変感慨深いものを感じた。それは歴史に関するものをブログで取り上げる際「どんなにマイナーな記事でも後日どなたかの目に触れればそれでよい。」と常々自分の胸に言い聞かせてきたからである。H様からは8月11日にメールを頂き、その後一箇月後の9月12日に、貴重な資料を送って頂いた。


以下は鹿島神社の宮司である荒平(あらひとし)氏によって書かれた「ふるさとの昔話」(平成16年出版)からの引用を入れながら、これまでの自分が調べたことと、合わせてまとめてみた。


1著者紹介

この地図は「ふるさとの昔話」からの引用である。
童生渕の戦いと相馬隆胤の討ち死に』

童生渕の戦いの概要を説明したい。相馬隆胤は勇猛ながら軽率なところがあったという。天正18年(1590年)5月14日(陰暦)、彼は敵兵を深追いしたが、その後反撃を受けたためやむなく中村に引き返そうとしたものの、乗馬が下手だったため童生渕付近の堀を越えようとした際に落馬し、二十名前後の家来とともに討ち取られたとされる。この時隆胤は享年28歳の若さであった。


この時、伊達側に殿様の首を取られないよう、従者の小姓寺島勘六(年齢は15~16歳くらい)が自ら隆胤の首を取り、馬に乗り追っ手を逃れようと付近の寺に入ろうと試み、それもかなわず林に駆け込んで自刃して果てた?とも伝えられる。近くに黒木城(相馬側の城館)があったのだが、城代となった門馬上総介貞経駒ヶ峯城奪還戦で討死(或いは隆胤とともに討ち死にか?)たばかりで、恐らく勘六は黒木城に逃れる余裕すらなかったのだろう。黒木城址近くの相馬市黒木に隆胤の首塚が現存する


荒氏の「ふるさとの昔話」によると、相馬隆胤が討ち取られたのは童生渕ではなく、十枚打(地蔵川の近く)であったと言う。『戦国相馬三代記』など相馬側の資料を見れば、これまで相馬隆胤が討ち取られたのは童生渕とばかり思っていたが、着目すべき内容と受け止めている。また寺島勘六が自害を遂げたのは黒木の里(首塚のある所)の古家の森蔭としている点も大変興味深いが、その古家がどこだったのかは定かでないようだ。


もう一つ疑問がある。隆胤の首を洗った池が石上地区の城崎八幡神社の南にあると言われるが、隆胤討ち死にの場所が十枚打だと仮定すると、勘六は童生渕側に戻ったことになり、辻褄が合わなくなる。(敵がまだ居そうなところに殿様の首を抱えて戻るのは不自然である)このあたりは今後の研究課題と受け止めている。


※赤い線と黄色い線は何れも私の推定ルートである。赤い線は戦国期の道路ということで信憑性は高いと思っている。黄色い線のほうは違っているかも知れない。


2位置図

Google航空写真に位置関係を落としてみた。討ち死した場所(十枚打)から首塚までは直線距離で3キロ前後といったところである。

3Google航空写真に落としてみた

こちらは童生渕~十枚打付近のGoogle地図である。十枚打という地名や戦国期の道路は既になくなっているので、推定してみた。

4Google3D立体画像

こちらは今昔マップから引用した明治初期頃の地図である。

5明治初期の地図

Google3D立体画像による黒木付近である。黒木城(相馬がた)の城代の門馬上総介貞経も駒ヶ峯城奪還戦で討死したとされるので、相馬側は相当苦しい戦いを強いられたと見られる。恐らく勘六としては、殿様の首を抱えて黒木城に駆け込むという選択肢すらなかったのだろう。

6黒木地区首塚Google3D立体画像

後に相馬の殿様が寺島家に贈った澪標紋(みおつくしもん)は、元来水路に立てる目印の杭(澪の串)のことで、航路を示すが、音の響きが「身を尽くす」に通じることから、殿様が勲功のあった忠臣を讃える家紋として用いられたとされる。これぞ武士の誉であろう。寺島勘六の子孫の家は中村城下の中村新町にあり、昭和58年の春、荒氏が訪ねている。その時荒氏は子孫の女性の案内で、勘六が殿の首を取ったとされる小刀と位牌を拝見させて頂いたとされるが、その時の感動は想像に難くない。


※寺島家が後に相馬の殿様から賜った澪標の家紋はこの模様と思われる。


7澪標紋

勘六が殿の首を取ったとされる小刀と位牌。位牌忠建重義禅男霊位が勘六の戒名らしい。

8位牌と小刀

横町コメント

福島民謡の相馬二編返しの一節に「花は相馬で実は伊達に」という言葉がありますが、長年相克を演じてきた伊達と相馬をこれほどまでに言い当てた言葉は見当たりません。相馬は6万石の小藩でありながら、大藩の伊達を相手に、武士道において一歩も引くところがなかったという意味です。


相馬の誉は毎年7月末に行われる相馬野馬追で捉えることができます。良かったら一度足を運んでみることをお勧めします。私も三度ほど見物したことがありますが、中村神社の総大将出陣式の固めの杯などに武士道の真髄を垣間見ることができます。古文書でも出てくれば相馬隆胤討ち死にの場所がどこであったのかがはっきりするのでしょうが、これを裏付けるものがない限り想像の域を出ません。荒宮司の話は地区の古老や祖父母の言い伝えを基にしたものとされますが、非常に具体的なので信憑性があるような気が致します。


この著作を読んでこれまで見えてこなかったものがだいぶ見えてきた気が致します。真偽のほどはともかく、大筋は出来たのでこれに自分なりの推理を加えて、突き詰めて行けば歴史エッセイを書けるのかも知れません。相馬のH様には、この場を借りて厚く御礼申し上げたい所存です。さて、連休二日目の本日もそろそろ晩酌の時間ですが、今宵は相馬勤務を終える際、定年退職の記念に購入した相馬焼の猪口で日本酒を嗜みたいと思います。(笑)


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9五百七十横町
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