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前書き

今回は徳川家康の指南役を始め、徳川四代に儒者として仕えた林羅山を紹介したい。羅山は前回紹介した藤原惺窩の弟子に当たる。羅山は朱子学を基本に講じているが林家はその後も徳川幕府の責任的な立場に置かれることになった。


参考にした文献は疋田啓佑著『儒者 日本人を啓蒙した知の巨人たち』である。藤原惺窩が日本における朱子学の魁ならば、羅山は惺窩の精神を受け継ぎこれを幕府に伝える役割を果たした人物と言える。林羅山の略歴を箇条で羅列したい。


林羅山(1583~1657)

1肖像林羅山

林羅山年表

・天正11年(1583年)京都に生まれる。


・幼少期より頭脳明晰。8歳の時に琵琶法師の語る『太平記』をすぐに覚えた。


・論語の修得では抜群の記憶力を発揮し、父親が頁を飛ばしたところ、その場で言い当てるなどした。


・13歳で元服した後、東山建仁寺の大統庵に入る。しかし二年後には僧になることを拒み、家に帰ってしまう。


・21歳の時には京都で私塾を開き『論語』を講じ、名声を轟かせる。これをねたんだ清原秀賢という学者が「朝廷の許可も得ないで四書を講じた」と羅山を糾弾した。同じころ、後に師匠となる藤原惺窩と出逢う。


・清原秀賢の圧力により窮地に追い込まれたこともあり、羅山は藤原惺窩の元に弟子入りする。羅山の学識の高さを見込んだ惺窩は徳川家康の儒教の指南役に羅山を推薦した。


・羅山23歳の慶長11年(1606年)にイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと「地球論争」を行う。この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説頑なに主張した。


・羅山24歳の慶長12年(1607年)家康は羅山に僧になることを強要し、羅山は止むを得ずこれを了承した。(羅山が僧になるのを拒んだ理由は、養母から僧になると親に孝行できなくなるから絶対に止めなさいと言われたことが原因であった。出家した後にも、羅山はこのことについて度々悩むことになる)


・羅山49歳の寛永9年(1632年)、尾張初代藩主徳川義直は羅山の為に江戸の上野忍岡に聖堂を建てる。(後世の昌平坂学問所の基礎となる)羅山はこの聖堂を基にして朱子学を講じ、自らの子孫に跡を継がせた。一方で仏教には批判的な立場を取っている。漢詩や『徒然草』の注釈書も手掛け、文学にも親しむ。手掛けた漢詩は4700首にも及ぶ。


・羅山52歳の寛永12年(1635年)、19条からなる武家諸法度寛永令を起案する。

その他、徳川家康の下では主に公文書の作成に携わる。中国の『正史』の翻訳にも携わる。


・羅山62歳の正保2年(1645年)時は『本朝編年録』(神道と儒教を融合させたもの)の編集に取り掛かる。


・73歳の明暦2年(1656年)長年連れ添った妻を亡くす。


・74歳の明暦3年(1657年)に明暦の大火に遭い、大切な蔵書(銅文庫)を失い失意のうちに没する。


※林羅山の思想の特徴

主君と家臣、父子の上下関係など、朱子学は身分制度を重んじる上で、まさに持って来いの思想であった。幕府に利用された感は否めないが、彼も幕府の権力の前に感化されるものがあったと見るべきである。「従俗即 教化」という彼の理念がある。彼は儒教を広める為に僧になるのは止むを得なかったとしている。その為表面上では僧を振舞いながら、仏教を批判しながら儒教と神道の融合を図る(神儒合一論)など、自分の立場ありきの思想を貫いた。一部に羅山を保身的、世渡り上手と批判する学者も存在するほどである。日本神話中の「三種の神器」を儒教的な智・仁・勇の「三徳の象徴」と見なすなど皇室の思想にも影響を与えている。


人間論では、人間は天理を受けその本性は善であるが、情欲のために覆い隠されているために充分に発揮できないとするもので、学問によって宇宙をつらぬく理をきわめ、修養によって情欲を取り去るべきことを主張している。 イエズス会の修道士であるイルマン・ハビアン地球論争を行った際は天動説を頑なに主張するなど、頑固な面も持ち合わせているが、地動説を認めれば、自らの宇宙に対する観念が揺らぐため、ハビアンの見解には全く聞く耳を持たなかったと思われる。


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横町コメント

徳川幕府がなぜ260年以上も続いたかを考える時、思想の屋台骨がしっかりしていたことが挙げられます。その屋台骨こそが儒教であり、とりわけ朱子学(陽明学は幕末頃に一気に台頭して参ります。)でした。ヒエラルキーにおける上下関係の秩序が重んじられれば、自ずと世の中は安泰となるわけで、徳川幕府にとって都合のいい思想が朱子学でした。林羅山は武家諸法度の寛永令の起案をするなど、文字通り幕府のブレーンとして活躍することになります。彼の叡智を時代的背景が求めたと言ってもいいのではないでしょうか?


話は変わりますが、忠臣蔵で仇討を遂げた赤穂四十七士になぜ情(切腹という裁定)がかけられたのかを考える時、往時のイデオロギーである朱子学が「君臣の関係の在り方」を説いていたことが挙げられます。彼らは主君の仇を討ったわけで、侍として十分な大義があったということです。武士道は儒教と密接な関係にあったわけですが、身分に応じた行動を求める朱子学が武家社会に深く浸透していたということです。


徳川幕府が発足した頃の日本が、なぜヨーロッパの先進国(スペイン、ポルトガル…)の植民地にならなかったのか?これは武力で日本を制圧するのが不可能と見たからです。豊臣秀吉は東南アジア進出をほのめかす親書を各国に送っています。豊臣政権が滅んだ後、徳川の武家社会の根底にあった思想が儒教であり、朱子学でした。


新渡戸稲造は日本には武士道と言う素晴らしい思想があると述べていますが、儒教は今でも我々の心の中に生きています。例えば謙譲の心です。これは自分は間違っても貴殿を害しませんという意思表示であります。近年謙譲をしないかたが増えてきましたが、これを「時代の移り変わり」という一言で片づけるにはあまりにも忍びない気が致します。


数箇月前に麻生大臣はコロナ対策でロックダウンをしなかったにも関わらず、死者や重症者が少なかったことに対して「我が国は民度が高いから…」と述べましたが、この民度の高さがどこから来るのか?を考える時、儒教思想の浸透が挙げられます。なかなかマスクが外せないなど、時に民度の高さが仇となることもございますが、この国に生まれたことを誇りに思いたい所存です。


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2五百七十横町
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