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去る9月22日、私は東街道があったとされる青葉区の鹿落坂の対岸の米ケ袋地区を訪ねた。寄稿している文芸誌「みちのく春秋」に連載している『東街道をゆく』執筆の取材のためである。東街道に関しては現若林区白萩町の薬師堂近辺(木下)を通ったとされるが、このルートだと大きく遠回りとなる。広瀬川の渡河に関してはもっと下流の部分(根岸交差点そばの宮沢橋付近)にもポイントがあったと私は考えている。

古代から存在した東街道は仙台城築城とともにルートの変更を強いられ、中世以前のルートをたどるのが難しくなっている。そういう事情もあり、東街道を一本の道と考えれば様々な矛盾(朝廷につかわされた東征の軍を通すには幅広い道が不可欠であった)に遭遇するわけだが、朧げなことが多いだけに、道は複数存在したと考えるほうが現実的(そう仮定しないと先に進まなくなる)と私は考えている。

Google3D立体画像をご覧頂きたい。赤の破線が東街道の一つのルートとされる道である。鹿落坂と言われるが、鹿が転げ落ちるほどの急な坂であったことが由来となっている。渡河地点を推定してみた。御霊屋橋より数十メートル上流の地点である。渡河地点はメタセコイアの原生林跡の傍と思われる。

1Google3D立体画像鹿落坂

米ケ袋地区方面から広瀬川を望んでみた。木立越しに見える建物はビジネスホテルである。

2木立と河原

鹿落坂の全貌である。中央部分の木造の建物は明治40年創業の老舗料亭である東洋館(以前にも紹介)である。

3鹿落坂遠望

東洋館の二階は洋室となっていて、仙台市街地が一望できるという。この建物は哲学者(美学者)の阿部次郎(1883~1959)が東北帝国大学教授を務めた際に、よく利用したとされる施設である。

4坂と東洋閣2

阿部次郎(1883~1959)略歴(以下はWikipedia版を編集)

1883年(明治16年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺に生まれる。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)から山形中学(現山形県立山形東高等学校)へ転校。校長の方針に反発し、ストライキを起こして退学。その後上京して京北中学校へ編入。
 
1901年(明治34年)、第一高等学校入学。同級生に鳩山秀夫、岩波茂雄、荻原井泉水、一級下に斎藤茂吉がいた。1907年(明治40年)、東京帝国大学に入学後哲学科を卒業。夏目漱石に師事、森田草平、小宮豊隆、和辻哲郎らと親交を深めた。
 
1914年(大正3年)に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て1922年(大正11年)、文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。
 
帰国後の1923年(大正12年)東北帝国大学(現東北大学)に新設の法文学部美学講座の初代教授に就任。以来23年間に渡って美学講座を担当。1941年(昭和16年)、法文学部長を経て1945年(昭和20年)、定年退官。1947年(昭和22年)帝国学士院会員となる。1954年(昭和29年)、財団法人阿部日本文化研究所の設立、理事長兼所長を務める。
 
大正末年から『改造』に連載した『徳川時代の藝術と社会』を著す。阿部はここで、歌舞伎、浮世絵といった徳川時代芸術を批判、抑圧された町人たちの文化と説いた。哲学者や夏目漱石門下の作家らとの交流や、山形で同郷の斎藤茂吉や土門拳との交流は有名。
 
1958年(昭和33年)脳軟化症のため東大附属病院に入院。1959年仙台市名誉市民の称号を贈られた同年、東大附属病院にて死去。(満76歳)現在、酒田市(旧・松山町)の生家は阿部記念館となっており、青葉区米ケ袋には阿部次郎記念館がある。彼の墓は青葉区の北山霊園内にある。https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-1303.html

5阿部次郎

入口から撮影した東洋館は、まさに風情ある料亭という趣が十分感じられる。文化的な価値が高い建物だけに、今後も是非現役として永く残して欲しい。

6東洋郭建物

阿部次郎は朝の散歩を日課としていた。文献を調べ、過去において阿部次郎の散歩コースを何度か歩いた経緯がある。概ねこんな感じだったと察している。彼は時として固まる思考を打破する策として朝の散歩を好んだようだ。思想家の多くはこのような傾向が強かった(もちろん例外もあります)と考えている。

7昭和初期散策コース

横町コメント
文芸誌への寄稿が、今の自分の執筆欲に繋がっています。みちのく春秋への初投稿となった『金色の九曜紋とともに』(仙台藩士・支倉常長に関する作品)が2013年の秋だったので、七年越しの寄稿となります。この中で重視していることは、机上のみの思考だけではなく、現地を自分の目で見ることの重要性です。ペンが進まなくなるのは誰にでもあることですが、自分はそんな時の打開策として現地取材を心掛けております。

ここ一二年の複数の取材によって、これまでイメージすら湧かなかった東街道が朧気に見えてきた気が致します。哲学者・阿部次郎に関しては、自らの散策路が東街道と重なるのを意識したか否かは定かでありませんが、第六感として文化的な薫りが漂うのをどこかで感じ取っていたのかも知れません。

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8七百横町

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