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前書き

朱子学や陽明学というと何かと難しい印象を受けるが、両者の違いを簡単に言えば、秩序を重んじ格物窮理(勉学によって知識を得、聖人に近づくことを説く)を主とする朱子学に対して、陽明学は秩序よりも心即理(人は学ばずとも聖人の域に達する志向を備えている。それを信じて生きることが重要と説く思想)を重んずる思想である。 趣旨は秩序を重んじるのが朱子学で、自主性を重んじるのが陽明学ということになる。


但し、両者は多くのところで共通点を見ている。五常(仁・義・礼・智・信)や君臣・父子・夫婦間の道徳を重視する点は同じである。現代において儒教から何かを得たいと考えるのであれば、自分は朱子学や陽明学にこだわる必要はないと考えている。こだわることで儒教を難解なものにしてしまい、敷居を高くすることに繋がるからである。自分も習いたてのころは朱子学と陽明学をさほど意識していなかった。


今回は日本の陽明学の祖、或いは近江聖人と言われた儒者中江藤樹についてお伝えしたい。前回までは「日本の儒者の研究」というカテゴリーで二回続けて朱子学者(藤原惺窩と林羅山)を扱ってきたので、今回は陽明学者の中江藤樹を紹介したい。尚、今回も参考にした著物は疋田啓佑著『儒者 日本人を啓蒙した知の巨人たち』である。


中江藤樹(1608~1648)


1中江藤樹


中江藤樹年表

・慶長13年(1608年)、近江国の小川村(滋賀県高島市)に生まれる。祖父の吉長は近江大溝城主に仕える武士、父の吉次は農民(一説に浪人)であった。

・9歳の時、祖父吉長の養子となり、伯州(鳥取県米子市)に移り住み勉学に励む。翌年祖父の主君が国替えになり、今度は伊予国大洲(愛媛県大洲市)に転居する。

・11歳の時、『大学』の「天子から庶民に至るまで自分の身を修めることが道である」という一節に触れ感銘を受ける。(後に、村人に平等に学問を教えるようになったのは、このことがきっかけとされる)

・15歳の時、尊敬して止まない祖父が他界し、藤樹は家督となる。

・藩では京都から招いた僧に『論語』を習う。藩では武芸ばかりを重んずる傾向が強かったため、聴講者が藤樹だけになってしまい、僧は京都に帰ってしまう。

・その後は独学で『四書大全』を学ぶ。人前で勉強すると白い目で見られるため、日中は武道に励み、夜になると学問に勤しんだ。(毎日、日課として二十枚を熟読)殊に『大学』は百回も読み返し、その後に「学問は徳(五常とも)を身に着け、これを明らかにするが基本である」という旨を述べている。

・この頃から藤樹の評判を聞いて師事する者が現れ、周囲からやっかみや誹謗を受けることが多くなる。藤樹は幕府の儒者でありながら出家して地位を得た林羅山を攻撃するなど、激しい一面を見せている。

・寛永11年(1634年)には老いた母親に逢いたい一心で脱藩を決意する。当時脱藩は重罪(刺客を差し向けられることもあり)であったが、主君からはお咎めなしとの意思が表される。

・郷里に帰った藤樹は藤樹書院という私塾を開く。

・寛永16年(1639年)塾の規則となる「藤樹規」を作る。基になったのは中国の白鹿洞書院の学則と言われる。その後藤樹は合理的に知を求める朱子学に疑問を感じ、徐々に陽明学に転ずるようになる。

藤樹書院に掲げられた「到良知」(学問の目的は無垢な心に善悪を誤らない正しい知恵を求め、心を磨くこと)は藤樹の教育理念となる。

・慶安元年(1648年)満40歳で没する。


中江藤樹に関する逸話など

藤樹の旧友(武士)の息子が思いの他学問の出来が悪く、武士にするのを諦めた。その後旧友は息子を藤樹に預けて医師にして欲しいと頼んでいる。息子は記憶力が悪く、普通なら見捨てるような子だった(今なら落ちこぼれ)が、藤樹は根気よく面倒を見て、自ら医学教本を噛み砕いたような書を作り、必死になって教えた結果、この息子は晴れて医者になることができたという。この逸話に代表されるように、彼はやる気のある者は徹底的に面倒を見る傾向があったようだ。


孔子は論語で「自分を認めない者には心を閉ざすが、理解してくれる者には全力を尽くして援助する」としているが、まさに藤樹の姿勢と重なるものがある。藤樹にとって教えるに値する人物は出来が良い悪いではなく、自分を師として理解してくれる人物ということだったのだろう。それと『大学』の一節にもある「天子から庶民に至るまで身分を問わずに教育を施すこと」が彼の終生の理念であった。大変立派な志向だが、教育の機会均等の魁とも言える気がする。


「学問をする者には徳がなければならない」ということは逆に言えば知識に溺れる者を戒める言葉でもあり、後学の儒者三浦梅園(1723~1789)とも重なるものを感じる。若いころは林羅山を批判するなど血気盛んな面が見られたが、満40歳で亡くなったのは儒者としてはやや早過ぎる気がする。(儒者は当時の平均寿命より長く生きた人が多い)まだまだ長生きして大著を著すなど活躍して欲しかった気がする。


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横町コメント

我が国おける陽明学の祖は中江藤樹と言われています。弟子には熊澤蕃山(1619~1691)、蕃山の影響を受けた幕末の儒者として吉田松陰(1830~1859)らが挙げられます。尊王攘夷という明治維新のイデオロギーの礎となった陽明学が、既に江戸時代初期に芽生えていたと言っていいのかも知れません。但し幕府は陽明学を危険な思想と見なし、これを教えたり学ぶのを禁じていました。秩序を重んずるのでなく、自主性を重んずるところに幕府への謀反につながるものを感じ取っての措置と言えるでしょう。


幕府によって禁じられた陽明学は密かに儒者の間でくすぶり、幕末の戊辰戦争で一気に開花します。日本の思想の成り立ちの過程は儒教抜きにして語れませんが、儒教にも枝葉(朱子学、陽明学以外にもありますが、メインはこの二派になります)があり、それぞれに役割を果たしたということになります。冒頭で述べた通り、朱子学と陽明学の違いを無理やり理解しようとする必要は、さほどないと自分は考えております。(学問として儒教を本格的に研究しようというかたは別です)皆さんはどんな考えをお持ちでしょうか?


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2六百横町

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