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これは現在の石巻市に於ける北上川河口近くの様子である。
※2018年3月21日、石巻市日和山より上流部に向かって撮影。

今の新北上川(辻堂~稲井~石巻河口)については江戸時代の初期に伊達政宗の行った流路改修工事で拡幅整備された区間である。但し郷土史研究家の紫桃正隆氏によると、中世以前の北上川流路を推定する古文書はほとんどないという。実は彼の著作である「葛西氏と山内首藤一族」の中に慶長年間以前の北上川の流路を推定した図があるのだが、その前に私が作成した古代の石巻地区の想像図をご覧願いたい。現在の稲井地区は広大な潟となり、万石浦と並んでいたことになり、結果的に紫桃氏の論拠を裏付けるものと考えている。赤●部分は沼津貝塚という史跡が発掘された箇所である。それらを察すると縄文の頃からこの辺りに人間の営みがあったのは間違いない。

これが紫桃氏の描いた慶長年間以前(ほぼ中世の頃と言って差し支えない)の北上川河口の流路である。彼は自著の「私本奥州葛西記」の中で、創世記の石巻城(13世紀半ば頃か)を東西を川で挟まれ、南に太平洋を擁し、北に広大な湿地を抱える特異な城としているが、この図を見るとそのことが何となくわかる気がするのである。興味深いのは江合川が海に直接注いでいる点である。紫桃氏の東西の川と述べたうちの「西の川」とは江合川に相違ない。

これは慶長、元和年間(1596~1623)における北上川河口の流路である。江合川が海に直接注いでいるのは変わっていないが、迫川の合流利点がずっと上流となり、鹿又地区となっているのがわかる。

これは元和~明治(1620年代~1910年代頃)の流路である。江合川の大半は神取地区で迫川に合流している。

現在の北上川河口近くの流路をご覧願いたい。遂に江合川は迫川の支流となり、定川という小さな川が海に注ぐものとなった。

ミック挨拶
私自身、まだ頭に入っておりませんが、北上川河口の流路の変遷は大変複雑なものがございます。これに城や館が絡んでくるともっと難しくなりますが、紫桃氏はこの難題に見事に立ち向かい、実りある研究成果を残しておられます。本日は改めまして、彼の残した足跡の重さにただただ感銘を深めております。

彼は自らの著作の中で、自身が探求できなかったことを後進に託していますが、自分がその一翼を担えれば、これに勝る幸いはないと考えています。本日は険しい山に立ち向かうつもりで己の足場の跡を残しました。この足場が今後の叩き台となることを祈念したい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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